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いまこそ反省と修正

安倍晋三氏が殺された事件により、珍しく日本の報道番組を視聴してみた。
どの番組も予想を上回る醜悪さだ。
 
どいつもこいつも、判で押したように同じコメントしかしない。
民主主義に対する挑戦・・・
断じて許すことができない・・・
台本を読んでいるのか? 言論統制でもかかっているのか?
 
りなるさんのこの記事を読んでみてほしい。

さすがだ。りなるさんらしい本質論。直球ど真ん中。
こういう言論を聞きたいのだ。
最も大切なことをりなるさんが語ってくれたので、私は少し別の角度から見解を述べたいと思う。


まず、犯人の供述を信じるなら、これは政治犯ではない。
犯人は、国家転覆を狙ったわけでも、選挙を妨害したかったわけでもなさそうだ。
「民主主義への挑戦」との解釈は的外れもいいところだ。(その言葉、香港の民主化運動が武力弾圧されたときに言ってほしかった・・・)
また、これは無差別テロでもない。安倍氏という特定の個人を狙ったものだからだ。
海外メディアは「暗殺」(assassination) と表現しているが、これもおかしい。(海外の要人もメディアも、日本の国内問題をよく理解していないから、鵜呑みにしてはいけない)
 
この事件は、ただの殺人なのだ。
無論、殺されたのが安倍氏だったから大事件になっているわけだが、犯人はなぜ安倍氏を殺したかったのか。
真の動機は本人にしかわからないのかもしれないし、日本の警察や検察が正しい答えに辿り着くとも思えない。
「特定の宗教団体」の関与を臭わせる “供述” も、問題の本質から大衆の目を逸らさせるための印象操作かもしれない。
 
亡くなられた人のことを悪く言うべきではない、という美学は私にもある。
功績を褒め称えるのは結構だし、失政や汚職を批判するつもりも今はない。
しかし、なぜ安倍氏は狙われたのか、その理由に目を瞑るわけにはいかない。
あれほど明確な殺意をもって狙われた人間には、狙われる理由があったに違いないのだ。たとえそれが犯人の誤解に基づくものであったとしても、だ。
 
りなるさんも言及しておられるように、この事件の根っこには貧困がある、と私も考える。
ただ、お金がない、生活が苦しい、というだけの問題でもない。
 
「70年代は貧乏がクールだった」と、みうらじゅんは言った。
作家の故西村賢太は「貧乏な頃が一番楽しかった」と語っている。
貧乏すらも楽しむ心の余裕があったからだろうか。
お金がなくても生きていける仕組みがあったからだろうか。
今は貧乏でも将来はリッチになってやる、と希望をもてたからだろうか。
 
犯人は犯行後、逃げようともせず、まったく無抵抗で取り押さえられた。
自分がやろうとしていることの帰結を知らないわけはあるまい。
犯人は、人生に、世の中に、あらゆることに絶望した人、と想像する。
41歳という年齢も示唆的だ。折り返し地点か、もう挽回は無理だな・・・と悟ったのかもしれない。
 
すべてに絶望するのは、救いが一切ないからだ。
お金がないだけではなく。
政治は何もしてくれない。
助けてくれる人もいない。
将来良くなる望みもない。
そして、負け組だの自己責任だのと言われ、社会のシステムから零れ落ちた人間が悪いかのような風潮の中で、生きる気力を失ったときに思うだろう。

こんな社会に誰がした?



私はこの事件を、重大なシグナルと捉えるべきだと思う。
直接のトリガーはただの私怨だったとしても、安倍氏というシンボリックな偶像を狙ったことにメッセージ性がないわけがない。
これは、弱者を切り捨てて自己責任論を煽ってきた日本の政治、メディア、大衆に向けられた警鐘なのだ。
 
この根本的な問題に触れる言論がほとんど見当たらないことが恐ろしい。
言論封殺に断固として戦う?
いやいや、犯行の目的は言論封殺じゃないよね。それより、日本を長年導いてきた人物が狙われたことの意味や社会的背景を議論させない空気こそ言論封殺でしょうが。
真っ当なことを言うと叩かれる。
それこそ民主主義の危機だろう。
日本はいつからそんな社会になったのだ?
 
最後に蛇足ながら。
警備をもっと厳重にすべき、と騒ぎすぎるのは危険な傾向だ。
日本を旧共産圏や現中国共産党のような監視社会にしたいのだろうか。
アメリカの警備会社にアドバイスを求めるのも愚の骨頂。最もなりたくない銃社会をお手本にしてどうするんだ。
 
世界の普通から