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日本人のヤバさを再考する

異文化についていろいろ書いてきましたが、今、最も根本的な違いのことを書きたい衝動に駆られています。
それは、日本人には公共心が欠如しているのではないか、という疑問です。

20代の後半をロンドン、30代の前半をルクセンブルクで暮らしていた頃、私はヨーロッパ人の振舞いに違和感をもっていました。
見ず知らずの人が微笑みかけてくること。
駅で。道端で。スーパーで。エレベーターで。

彼らは、アジア顔=よそ者の人間にフレンドリーに振舞っている、くらいに私は感じていました。
そのとおりだった部分もあるでしょう。
とくにルクセンブルクのような小都市では、私が道端で地図を広げていると(Google マップなどなかった時代のこと)、May I help you? と声をかけてくる人たちが必ずいました。

そんな体験を積み重ねながら、ヨーロッパの人たちって親切だなあ、と無邪気に感じ入っていました。
しかし今の私は、そんな素朴なことではない、と思っています。

困っている人を助けるとか、ベビーカーや車椅子の人を手伝うとか、そんなことは人として当たり前のことです。日本人だって誰もがそうします。
一方、誰にでも微笑みかける振舞いは、親切心とは別の何かである、と私は考えています。

最初の頃は、他人と面倒を起こさないための知恵?と考えました。
あなたに敵意はないですよ、だから穏やかでいましょうね、という意思表示であり、警戒心の表れである、と。
日本と比べて物騒な社会では、そういった知恵=カルチャーを誰もが身につけていると考えたわけです。

一理あるかもしれませんが、それは本質ではないと思っています。
今の私の考えはこうです。
見ず知らずの人と微笑みを交わし合うことは、ひとつの社会を構成する成員であることを確認し合う行為である。

現在私が住むジュネーヴは人口 20万人の市ですが、地域社会=コミュニティと言うには大きすぎます。
ジュネーヴの全市民を「仲間」と考えるのは無理です。
仲間とはせいぜい、近所に住む数世帯と、職場を共有する同僚たち、それ以外のサードプレイスで顔を合わせる数人、それら全部合わせても 20人いるかどうかってところではないでしょうか。

そのような狭くて密な仲間との関係はいいとして、「社会」というはるかに巨大な概念をどう捉えているかに大きな違いがあるのではないか。

例えば、卑近な例で恐縮ですが、電車やバスの中でイビキをかいて寝たり、お化粧をしたり、床に座る人はヨーロッパにはいません。
(奇声をあげたりする人は稀にいますが、それは社会の外側で生きている人でしょう)

日本人は、公共の場でのお行儀がいい。しかしそれは、他人に迷惑をかけないことに特化していて、自分が周囲からどう見られるかについては案外無頓着なのではありませんか?

誤解しないでいただきたいのですが、日本人の公共マナーについて言っているのではありません。
マナーに関しては世界一ソフィスティケイトされた国民性だと思っています。
公共マナーではなく、「公共心」のことを私は言っています。
それは、見ず知らずの他人ばかりの空間であっても、パブリックな場では、社会の一成員であることを忘れない、ということです。

田舎と都会の違いってありますよね。
田舎では、ほとんどの人が顔見知りだったりするので、外でヘタなことができない。一方、都会は見ず知らずの人ばかりなので、顔のない集団の中では何をやっても平気。

私は、そのしがらみのなさが都会の良さだと思っています。
でも、いくら知らない人だらけの大社会でも、公共心をなくしてはいけないと思うのです。

なんのために?と問われると、返答に困るんですけどね。
そのほうがちょっとだけ幸せな気分になれるから、かな。
電車内で目が合ったら微笑む。
エレベーターで一緒になったらあいさつを交わす。
レストランで隣の席になったら世間話のひとつでもする。

そういうの、メンドクサイですか?
それとも、気味が悪いと思われる?
見ず知らずの他人を怖がって避ける傾向は、悪いニュースばかり取り上げるメディアの影響ではないでしょうか。
巷の99.999%は善き人たちだということを思い出してほしい。

べつにヨーロッパの民の振舞いを美化する意図はないです。
ただ、彼らは、それぞれのレイヤーで幸福感を模索する意識と能力に長けていると感じます。
2~5人の家族、10~30人の仲間、100~200人の地域社会、そして何人いるかもわからない公共社会においても。

公共心とは何か。社会とは何か。
心ある一個人が声を上げても日本の社会は変わらない気がします。
日本国民の幸福感に直結する問題について、政治リーダーとメディアがロクに発信しないことは、はっきり言って狂っていると思う。
税制とか賃金とか、お金のことはどうでもいいんですよ。
もっとずっと大切なことがある。
国民国家でありたいのなら、国民がどう振舞えば幸せな気持ちになれるのかを語るべきではないのか。経済ではなく社会をこそ立て直すべきなんです。
それができない政府など要らない。


P.S. 蛇足ながら。
失われた 20年とか 30年とか、日本の GDP が OECD諸国に比して停滞している云々は、完全なプロパガンダです。騙されてはいけません。
統計数字というものは、いかようにも作れるし、そもそもデータと実態には関連性がないのが常です。
生きづらいと感じるのは、経済のせいではなく、もっと別のことだと思うのです。

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