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多数決は民主主義ではないってどういうこと?


※公開後一部追記(●●●●●●の付いた箇所)

例えばの話です。

10人のグループがありました。
次の休日にみんなで遊びに行こうと計画を立て、行き先の候補を各個人が1つづつ(合計10箇所)出します。
山、海、プール、ゲームセンター、映画、カラオケ、動物園、水族館、演奏会、演劇鑑賞。
8人が「虫が出るし【山】には絶対行きたくない、それ以外ならどこでもいい」と内心思っており文句禁止の多数決で決めることにしました。

多数決の結果:【山】に行くことなりました。

「多数決は民主主義ではない」!?

最近ちょくちょく「多数決は民主主義ではない」という言葉を良く目にします。先に言っておくと、個人的にはこの表現は好きではありません
私個人の解釈で言い換えるしたら「多数決は民主主義において大切であるが、万能ではない」といった程度でしょうか。

【●●●●●●追記項目→】
「そもそも民主主義とは?」という問いはなかなかに難しく、簡潔に形容しがたいです。

私の解釈を踏まえて簡潔に言語化しますと『国民全員が権利を持ち、全員の意見を聞いて物事を決め、それに従う』という事になります。
もちろん本当に国民全員の意見を聞いていたら成り立ちませんので、代表を選挙で決めて(投票者の代弁者)、そのなかでさらに多数決で物事を決めることになります。大前提として「多数決で決めることを国民として納得している」というのが入ります。
※民主主義による国の団体は全て「多数決原理を採用すること」が求められています。
【→追記終わり●●●●●●】


多数決原理は権力者と非権力者の対比の観点から考えれば「少数の権力者の判断で完結せずに多くの人間の意見を聞く」という意味では民主主義と言えるでしょう。

さらに多数決は道徳における「最大多数の最大幸福」による考え方でもあり、道徳的にも評価のある方法といえます。

しかし多数決は慎重であるべきで、不用意な多数決は、多数の人間の感情にそぐわない結果を生み出すことがあります。

多数決の大きな問題点は2つです。

①多数決が民意を反映しない。
②多数決は少数派を抹殺する。

①多数決が民意を反映しない?

最初の例の話です。10人中8人が【山】には行きたくないと思っていても、多数決では【山】になりました。
結果から考えれば簡単な話ですが、2人が【山】に投票し、8人は誰一人被ることなくバラバラの場所を投票することで、【山】が最多得票となります。

結果として8人という多数が望まぬ苦しい結果になってしまいました。

なんだ8人も苦しむなら多数決ってダメなんだね、という感想を抱くと思いますが、この感想自体が「8人と言う多数が苦しんでいるからダメ」という(無意識下の)多数決的な判断と言えます。

つまり"多数決が悪で不採用にするべきだ"というよりは「事前の議論を十分にした多数決を行う」であったり「多数決を複数回行う」等で解決させるべきだと思います。

②多数決は少数派を抹殺する!?

ここで問題とされる「少数派を抹殺する」とは、「少数派の気持ちを汲み取らないのか?」という争点であるという前提で考えます。

"満場一致にならない限り可決しない"という状態では物事が全く進まなくなるので、多数派で採決させるという考え方自体は然るべきだと思います。

じゃあ少数派の投票が無価値であるか、何も報われないのか、というのは少し違います。

最初の話に戻りますが、民主主義は「少数の権力者の判断で完結せずに多くの人間の意見を聞く」と私が述べました。
これを少し言い換えます。

「マジョリティによる判断で完結せずに、可能な限り(出来れば全て)多くの人間の意見を聞く」

多数決は反対派が何人いたかという事実「反対意見者」の数を知ることが出来ます。(実際には票数だけではなく、可能な限り理由も聞けると良いでしょう)
つまり「多数派の意見で物事を決めるが、参加者全員の意見を踏まえた結果である」から多数決は民主主義であると言えるのでしょう。

世の中には「投票拒否」者も居ます。
日本の政治において野党が投票拒否をするのは「民主主義としての多数決(全員参加)をせずに決めたのだからお前らは民主主義に反している」というメッセージの抗議活動だと認識してますが、
多数決に参加する事が民主主義としての立場であり、民主主義を放棄し、反したのは投票拒否側であると私は考えています。

少数派が多数決を拒否する事は、少数派にとって何の得にもならないのです。

多数決の結果の可視化こそが民主主義

皆さんは、漠然とこう思った事はありませんか?

「概ね賛成だけど3割くらいは反対の気持ちだなー」
「私は賛成だけど、5人に1人くらいは反対者居そう」

そう思って投票した時に、もし満場一致だと
「えっ……これはなくない?」
「今からでも反対に1票いれようかな?」

賛成派でありながら、多数決の結果に不満足になり、あまつさえ反対派にいれたくなる現象です(多数決の結果をコントロールしたくなる)。
これは認知的不協和からきているものだと思われます。

実際には満場一致などそうそうあるものではありませんが、少数の人数で多数決を行えば結構な確率でありうる事です。

心理として、例えば二人がもめた時に「6:4でAが悪いな!」と考えたとき、多数決をとればもちろんAが悪いと言うものの、結果としては6:4になって欲しいとその人間は思うでしょう。

多数決は確かに物事の結果を一つに絞りますが、人の気持ちを反映させるには多数決の結果の可視化が必須となります。

理屈で考えると「でも6:4でAが悪いと考えていたら大体皆も同じような感じで、Aが悪いの満場一致にしかならなくない?」と思うでしょう。でも世の中色んな人、色んな視点があります。

また、大数の法則があります。

※ここに大数の法則を当てはめるのはちょっとした屁理屈ですがイメージとして咀嚼してください。

9:1とか6:4とかの比率はそもそも物凄い曖昧な基準で個人が決めているわけですが、きっと多数決を多くの人に取れば取るほど、なんとなくそれに近しい割合になっていくでしょう。(逆に、それから遠ければ自分の考えが少しマイノリティだということが分かる)

理屈をごちゃごちゃ並べましたが言いたい事は一つです。

賛成派でも完全同意で無い限り、認知的不協和を解決させるためには一定の批判が欲しいのです。

自然界の摂理で例えるならば働きアリの法則なんてイメージ的に合うかもしれません。

バランスを保ちたい気持ち

以前、自分のnoteでも少し述べました。

バランスというのは大事です。例えば理想主義に偏っていれば現実を少し見る。今度現実を見すぎていたら少し理想を夢見る。

多数決の結果が満場一致だと、逆に不安になるケースがあります。
満場一致のパラドックス若しくは全会一致の幻想というものです。

本当にこれは満場一致なのか?
流されていないか?
少数意見が意図的に排除されていないか?



例えば以前、とあるSwitchのマッサージゲームにおける性表現が叩かれました。現実の性被害を彷彿させる、などといった論点でした。

私は、ゾーニング配慮が充分なされた作品であるため問題ないと自分の中で結論を出しています。

しかしながら私は性表現が苦手です、だからゲーム自体には嫌悪感が強いですし、嫌がる人の気持ちは分かるんです。

自身が不快だから作品を排除したい、というのは賛同しませんが、
「自分が好きなだけで守りたい」という賛成派も居ると同様に、
「不快なだけで排除したい」という反対派が居るのも然りです。

だから私、このゲームに関して否定的な意見を持つ人がある程度居るのって逆に安心しているんですよ。(誹謗中傷に発展した意見は論外ですし不快です)

もしこれが満場一致だとしたら、私は物凄く不安になります。

誰もかれもがこれを不快に思わない価値観になっているのか?
さらにエスカレートして危ない作品が出るのではないか……?

しかしながら批判派はちゃんといて、少数派の意見も可視出来て、それで初めて安心できているのです。

批判者はどこまで批判しているか?

批判といっても、公共の福祉に反するものや誹謗中傷は全く賛同しません
性犯罪を助長するなどの中傷的意見にも全く賛同できないところもあります。

しかし緩い批判もあります。

『作品はこれ以上のゾーニングも不要だと思うが、これを全く問題ないとする風潮には反対する』という主旨のものです。

似たような論調を良く目にしたことがあるのではないでしょうか?

この論調の人はおそらく多数決であれば「賛成派」だと思われます。しかし順々に皆が意見を述べていく中、賛成が多いのを見て怖くなって批判的意見をしている、というものです。


過激な人の中には「批判をしている」というだけで、批判者を潰しに回る人も居ます。しかしこういった人の意見を潰すのは間違いではないでしょうか?

なぜなら「賛成派だけど問題点も分かる」という人が「過激な賛成派」によって攻撃されることにより「賛成(賛成派)は問題ありすぎじゃない!?!?こんな人たちの暴走を止めるべく反対派であるべきだ!」となってしまうからです。

批判を潰すことは批判の大切さを高め反対勢力を広げる事になる。
それは「他国のデータにより性表現を規制すると犯罪率が上がる」という論調を使う人にとって理解できて然るべきのことなのではないでしょうか?


正しく意見を吸い上げるためには


多数決にも種類があり、「普通の多数決投票」に加え「決選投票」また「ボルダルール」というものがあります。

上記の記事が多少難しいですが、時間がある時にぜひお読みください。

面白いことに上記の記事では3つのルールにより3つとも結果が変わっています。

「【広く】支持される」ことを優先するのであれば、ボルダルールが良いでしょう。最初の事例も、ボルダルールであれば山になることは無かったはずです。

まとめ

多数決が民主主義であるためには、最多得票だけに目を向けるのではいけません。批判意見の割合や内容は大事であり、見ぬふりせず、切り捨てず、考えられるべき事だからです。

そして全ての人間が「100%賛同する」という物事もまずありません。

【極端な意見が社会通念にならないためには批判は共存されるべきものではないか?(極端な通念を暴走させないため)】

【穏健で、広く賛同を得られるような集団意思決定の採択を考えるべきではないか?】

一定の批判と共存しながら、より良い選択が出来るよう、学び、考え、寄り添い、やっていけると良いですね。


DNF

まだまだ勉強中の若輩者ですが、ツイッターのフォローなどしてくれると嬉しいです!

@P_drenreb




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