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再考:表現の自由とは?


【表現の自由】という言葉があります。

1:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2:検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

日本国憲法第21条

【表現の自由】という言葉は【憲法】に登場します。
【表現】はとても広い意味の言葉ですが"その他一切の"という但し書きがあるように――芸術的、文学的な表現(創作物)などを含めた、何かの意思の表明になりうるようなもの――全てが【表現】となります。

【表現の自由】によって、どんな表現も発信することが許され、事前検閲等で差し止められることがあってはならないのです。

憲法とは

さて、【表現の自由】を語る前に、そもそも【憲法】というものをおさらいしましょう。

人には【人権】というものがあります。
生きる権利があります。
自由に過ごす権利があります。
幸せを求める権利があります。

そういった基本的人権を社会が守るため、"国家と国民"の間になされた契約が【憲法】と言えます。

さて、【憲法】は当然絶対的な効力を持つものかもしれませんが、あくまで"国家と国民"の間の話ですので、国家が人権を守るという話です。

「国が私人の人権を守る(侵害しない)」と言えますが「私人が私人の人権を守る」事を基本的に義務としていません。
(【憲法】は、国家権力に対する【抵抗権】としての側面があります)

私人間効力

"私人間"効力とは「しじんかんこうりょく」と読みます。

【憲法】は本来は"国家と国民"の間で適用されるため、"私人間(私人と私人の間)"においては【憲法】ではなく【民法】などによって守られるものとなります。

しかしながら資本主義社会では私企業が栄え、大きな権力のようなものをもち、個人との悪しき権威勾配が発生することもあるでしょう。そういった「対等ではない私人間に対しては憲法を適用させる」という考えです。

直接適用説

完全に適用させてしまう場合、国民同士を憲法で縛りあうことになり自由を著しく阻害させてしまう恐れがあるため問題があります。(私的自治の原則を逸脱してしまう)

無適用説

しかし全く適用させないでいては、"私人間"に起きる悪意ある人権侵害を止めることが出来ないかもしれません。

間接適用説

どちらの人権も国家は守らねばなりませんから(企業も法人格としての人権を守らなければならない)【民法】などと合わせながら裁判所の判決に委ねることになります。(民法90条の公序良俗の適用や、公共の福祉による調整等)

公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。

民法90条

私人間効力で争点になりやすいのは「企業にも【営業の自由】があるため大体のことは企業の裁量の範囲内と認められる」事や「私人は他の企業を選ぶ自由がある」事で、明確な理由が無ければなかなか違憲の判決は下りないでしょう。

憲法の【表現の自由】の侵害とは?

公権力(国家)によって私人の表現を検閲、規制、排除などされた場合は"【表現の自由】の侵害に当たる"と言えるでしょう。
公権力によって法律によらない人権制限があってはならないのです。

しかし権威勾配の無い対等な"私人間"には基本的に【憲法】は適用されません。特に【表現の自由】を侵害するような制約は発生しないと思われます。(制約されることがあるとすれば、人体を拘束するような【表現の自由】以前の問題になると思われます)

批判も【表現の自由】です。たとえその批判が「そんな表現をするな」というものであっても【表現の自由】です。(そもそも、その言葉だけで私人の【表現の自由】を制約するほどの力がありません)

"思想(意見)の自由市場"としてどちらも尊重され、議論されるべきです。

理念としての【表現の自由】

しかしながら、私たちは「その表現は取り下げないで欲しかった」と思う事があるでしょう。仮に自分の好きな表現ではなくても「これを取り下げるのはやりすぎじゃない?」と思うこともあるでしょう。

例え自分たちの嫌いな表現であっても存在を認めることで、多くの人がより多くの表現に触れられる世の中であって欲しい――"憲法の【表現の自由】"ではなくて、"理念としての【表現の自由】"を大事にしたいと思っているからです。

自分が好きでなくても、その表現で誰かが救われるのなら存在したほうが良い、表現にはそれだけの力があります。だから多くの表現が、自由に存在することが、多くの人間を守ることになるのでしょう。

そうした"理念としての【表現の自由】"からすれば「企業に広告を取り下げないで欲しい」「表現があまり規制される世の中にならないで欲しい」と思うのは自然なことです。

だから私たちは法ではなく理念(気持ち)で戦う必要があるのです。

世の中の表現は気持ちで決まる

たまに、企業の広告等のクレームが発生して、企業が広告を取り下げることがあります。
そうした場合に「【表現の自由】という憲法があるのだから、感情など不確かなもので規制される事は許されない、誰かの人権を侵害したなどの明確な理由が必要だ」という理論を展開する人が居ます。

これは一見正しいのですが、この文章が正しいとするのであれば「企業が広告を取り下げたのは企業の意思ではなく公権力によって強要された」のでなければ【表現の自由】の侵害には当てはまりません。

「一般人も数を揃えてクレームを出したらそこには十分な圧力がある」と思う方もいるかもしれません。しかし大多数の非権力者側の意見が力を持つことは民主主義として至極真っ当であり、抵抗権としての【表現の自由】(批判)の行使としても正しいと言えます。

すなわち、企業が社会の声によって表現を取り下げること等は、憲法の【表現の自由】の侵害ではありません。
お客様のクレーム等で広告を取り下げることに権威勾配は存在せず、企業の裁量で取り下げているのです。

「規制される事は許されない」と主張することは企業の【営業の自由】(企業の人権)や、かたや民主主義を無視した主張になりえます。

つまり、もし自分の好きな広告(表現)を取り下げて欲しくなければ、企業に「取り下げないほうが良い」と思わせる勝負でしかありません。

表現規制と戦うために

もし自分たちの好きな表現を取り下げられたくなければ、表現者にとっての得になる味方にならなければなりません。法云々ではなく道徳的な共感性を伴う主張によって味方になることが戦略としても重要です。

炎上に加担しない

企業の広告の場合であれば、基本的に企業は利益追求であり党派性ではありませんから「クレームを入れてるやつをぶっ叩けば自分は味方と思ってもらえる!」なんてのは間違いです。もし乱暴な言葉で叩いて居たりしたら、傍から見たらどっちも迷惑な暴れてる人で炎上の加担者です。また「党派性を出してる人間を公的に支持したら、敵対関係の顧客をまとめて失うリスクがある」ため、非常に扱いづらい困った存在になります。敵対関係を作り出し目立った争いになる(レスバ等の)行為は辞めた方が良いでしょう。

例としてこんなケースが想定されます。
※"表現者"は個人でも企業でも構いません。


表現者「こんな表現出しました!」
A「その表現は取り下げろ」
表現者「(誠実な対応をしながら、取り下げない方向にしよう)」
B「Aは表現の自由の侵害だ!○○○○○(罵詈雑言)!」
A「B酷すぎ、表現者さんはまさかBみたい誹謗中傷を肯定するんですか?」
表現者「(えぇ……これだと表現取り下げないと悪者に思われるやん)」
表現者「すいません(Bは肯定できませんので)表現は取り下げます……」
B「Aが表現取り下げさせた!表現者も味方してやったのに不誠実だ!」
表現者「はぁ……」

Bが迷惑な存在なのは分かりますよね。これは辞めましょう。

応援の声を贈る

実際に表現者に届く声がクレームだらけであれば「取り下げるべきだ」と判断するのは自然です。ですから「応援の声」を贈り、意見を可視化させることで民主主義らしく勝負するのが分かりやすいでしょう。

買い支える

企業にとっては今も今後も売り上げが下がらないことが大事なので、買うことが何よりの応援になるでしょう。売り上げ数字によって反省すべきかどうかの指標になります。

デマは毅然と否定する

「こういう表現は○○を肯定している」という批判の中には明らかに穿った見方であったり、デマのようなものもありますから、レスバにならないように否定するのが良いでしょう。

第三者から見て

上記の事を含めて、第3者から見て支持されるような手段で戦いましょう。マイナスな行動(相手を馬鹿にするなど)ではなくプラスな行動(応援)で、ポジティブに行きましょう。

選挙はちゃんと参加する

公権力によって表現を規制するような法令が作られてしまえば、本格的な表現規制が行われていきます。そういった流れに対抗してくれる人を選ぶように、きちんと選挙には行きましょう。

表現に対する道徳的評価

"理念としての【表現の自由】"を守ろうとした場合に、非道徳的な表現もそこには含まれるでしょう。

"International Covenant on Civil and Political Rights"(市民的及び政治的権利に関する国際規約)略して国際人権規約にも【表現の自由】の項目があり、このように書かれています。

第19条 表現の自由

1:すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。
2:すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、 芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、 受け及び伝える自由を含む。
3:2 の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがつて、この権利の行使については、 一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によつて定められ、かつ、 次の目的のために必要とされるものに限る。
(a) 他の者の権利又は信用の尊重
(b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

(市民的及び政治的権利に関する国際規約)International Covenant on Civil and Political Rights

表現の自由は義務や責任を伴うものであり、道徳上の目的で法を行使する場合には制約される、ということですね。

つまり表現に対しての道徳的評価というのは必ず発生するものであり、それを取り下げるか取り下げないかというのも当然の議論として享受するものなのだと思います。
※もちろん、制約はよほどのことがなければされないべきです。

まとめ

基本的に"憲法の【表現の自由】"は、ほとんどの場合が日常で発生(侵害)されるようなものではないと思われます。法的な範疇では日本は他国に比べても【表現の自由】が守られた国でしょう。

しかし世の中には公共の場における広告表現などが問題とされ、企業への規制を求める声があり、広告が取り下げられてしまうような事態が発生することがあります。"多様性を認める社会作り"が求められるこの世の中で、多くの表現がこの世に存在することは道徳的でありますから、個人で避けられるような表現に対して必要以上のクレームが浴びせられ、消えていってしまうような世の中になってしまうのは好ましくありません。

このような流れに対抗して、"みんなが、表現を可能な限り制約しないという道徳的な理念を大事にしていくべき"だと思っているのであれば、道徳的な共感性を大事にした行動、主張によって浸透させていくべきだと考えます。
(表現を道徳的にするのではなく、表現を道徳的に扱う事で表現を守るべきである)

以上、表現の自由についての再考でした。



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