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痣者考 〜『鬼滅の刃』の痣者についての雑記〜【ネタバレ有り】

”痣者”とは?

最近大ヒットした『鬼滅の刃』には、“痣者”と呼ばれる者たちが登場する。体のどこかに痣が浮き出て、その者は身体能力が飛躍的に向上する、という設定だ。基本的に始めから痣が出ている者は少なく、ある時誰かの体に痣が出て、そこから共鳴するように他の者へと伝播していく、ということらしい。
また、心拍数200以上、体温39.0℃以上という状態を両立して初めて発現できるようだ。人間の限界体温は42.0℃(ここまでになると、熱凝固するたんぱく質があり、生命活動に支障が出る。また、脳は体内で最も熱に弱い内臓である)、20代男性がランニングをした時の最大心拍数の平均が200なのを鑑みると、なかなか無茶な条件と言うことができるだろう。痣は元を辿れば最強の鬼狩りこと継国縁壱の額に出ていたものが原初と言うことになるだろうか。神の寵愛を一身に受けたとまで言われる縁壱の神技に近づくためにはそこまで自身の肉体を追い込まなければならない、ということだろう。

痣の発動条件について、おはぎ好きの風柱を饒舌に煽る、喋るのが嫌いなはずの水柱の図。
コミュ障のくせに煽りスキルは妙に高い。これではみんなに嫌われるわけだ。

痣の前段階:呼吸

”痣者”である彼ら鬼狩りが相手にする鬼とは、鬼になった瞬間から普通の人間よりも身体能力において優れた存在となる。怪力になり、俊敏性が増し、倫理観を喪失して粗暴になり、血気術という摩訶不思議な術を体得する者もいる。その代わりに日光にさらされると死ぬ、という甚大なリスクを抱えるが、別に夜間に行動すればいいだけの話で、鬼を倒す使命を背負った鬼狩りにとって脅威であることに変わりはない。
フィジカル面で大きく差をつけられている人間の鬼狩りは、主に呼吸を中心とした技術で鬼たちに対抗する。全集中の呼吸に始まるこの技術は身体機能を一時的に底上げするもので、主人公たち世代になると、そもそもこの呼吸を使えない者は鬼狩りにすらなれないのだ(鬼喰いなどの例外は除く)。呼吸法の達人になると、十二鬼月と呼ばれる最高峰の鬼たちとも渡り合えるようになる。作中に登場する柱とは、呼吸法の達人かつ、剣技の才能も持ち合わせた至高の存在なのだ。

攻撃や治癒など様々なことに応用が効く呼吸。
むしろ呼吸がない時代はどうしてたんだ?というレベルで鬼狩り必須の技術なのだ。

痣とは?

では痣とは何なのか?痣はこの呼吸によって上昇した身体機能にさらにブーストをかけるもので、呼吸がボクサーに対する気付け薬(興奮剤。ドクターストップのタイミングが計り辛いため現在は禁止)とするならば、痣はドーピングに近い感覚だ。ドーピングには副作用がつきものだが、痣を発現した痣者と呼ばれる鬼狩りたちは、なんと齢25を超えると死ぬのである。
痣の始祖は継国縁壱という伝説の剣士だが、彼は天寿を全うしている。しかし彼が80歳を超えても生きていたのは、単に肉体が異常に頑健であったためだと思われる。縁壱は生まれながらにして呼吸法を体得しており、同時に武術の粋である至高の領域に到達しているという人外ぶりであり、刀を取れば自動的に赫刀になり、初めて握った袋撓いで剣術の師範を圧倒し、寿命間近でありながら上弦の一をあと一振りで絶命のところまで追い詰め、ラスボスの鬼舞辻無惨を半死半生の目に遭わせ、化け物じみた強さである鬼の始祖をして化け物と言わしめる傑物なのだ。

人外から人外扱いされる継国縁壱。
彼は剣技においては比肩する者のいない天才だったが、兄との良好な関係、妻子との幸せ、
鬼の始祖の討伐など、自分の人生において大事だと思うことは何一つ達成できていない、
という悲しいキャラクター。

さらなる身体能力の向上を得る代わりに、痣は一度発現したらもう取り返しがきかない。呼吸は技術だが、痣は状態である。寿命の前借りとでも言うべきこの“状態”は、しかし最終決戦編ではほほ獲得必須となっている。ラスボスである鬼舞辻無惨が強すぎるためだ。というよりも、上弦の三クラスになってくると、痣者でも単独では敗色濃厚になってくる。スカウトマンこと猗窩座、イカレ教祖こと童磨、六つ目ブラコンこと黒死牟、は人間を超越する身体能力を有する痣者が束になってようやく撃破できるかできないかまで持ち込むことができる、という破格の戦闘力を誇っている(童磨は特殊な事情により痣者ではない者の、自分の命と引き換えの捨て身攻撃に撃破されている)。そして鬼舞辻無惨に関しては、回復力も血鬼術も桁違いなため、痣者が束になっても敵わないことが判明している。従って柱たちは勝つためではなく、夜明けを待つという意味で、長く足止めするということを目的として最終決戦に挑むのだ。
痣とは状態なため、技術的に訓練によって修得するというよりも、ある時点を境にして覚醒する、といった感じが強い。その点で、作品は異なるが『ドラゴンボール』で言えば、界王拳よりもスーパーサイヤ人に近いのかもしれない。いずれにせよ痣が発現した者はそれまでよりもはるかに強くなる。

無惨を足止めできる可能性を持つ柱を守るために、肉壁となる無名隊士たち。
鬼舞辻無惨とは、自分たちの命など当然のように勘定に入っていないと、
殺すことなどかなわない破格の生命体なのだ。

痣の意味とは?

『鬼滅の刃』の場合、痣によって上がった強さのパラメーターや数値的な事よりも、覚醒に至るまでのプロセスが重要な気がする。
先にあげた『ドラゴンボール』における界王拳など、漫画における一時的に肉体にブーストをかける能力は、その戦闘力や強力無比な技に主眼が置かれがちだが、『鬼滅の刃』の場合は痣が出たからといってそこまで目に見える違いはない。呼吸技の数が増えるわけでもないし、空気を殴って衝撃を飛ばすような超常的なレベルにまで技の威力が変わるわけではない。そもそも、肉体強化の重ねがけは中々伝わりにくい気がする。界王拳の状態でスーパーサイヤ人になりました、と言われても上手く想像できないだろう。それなら、10倍20倍と界王拳の倍率を上げていくか、スーパーサイヤ人2なり3なり、といった進化の段階という形で表現した方が分かりやすい気がする。痣を発現したのは主に柱だが、呼吸法の時点で柱はすでに人知を超えた身体能力を発揮しているのだ。
それに、痣になったからといってそれまで防戦一方だったのが一転攻勢になる、というわけでもない。上弦の月、及び無惨が強すぎて、描写的には少し反応速度が上がったという程度なのだ(赫刀にできるというメリットはあるが)。

完全に余談であるが、筆者は現代柱の中で、甘露寺蜜璃が最も才能のある隊士だと思っている。
その根拠が彼女が痣を発現する直前の、上記の画像内の描写になる。
彼女は柱の中で2番目に痣を発現させた者だが、この段階では痣の存在を知りもしない。
にも関わらず、心拍数という痣の発現条件について本能的に言及している。天稟だろう。
また、後に甘露寺はどうやったら痣が出るかと聞かれて、訳の分からない回答をしていたが、
最初から160kmのストレートを投げれる者に、「どうやったら160km投げれるんですか?」
と聞いても「思いっきりグンと振りかぶって、頑張ってビュンと腕を振るだけ」
というような答えが返ってくるだろう。天才は教えるのに向いていないのだ。

デザインとしての痣

それでも『鬼滅の刃』が優れている点は、痣という目に見える形で強さの度合いや段階を表現していることだと思う。戦闘描写ではなく、デザイン的に強さの指標を示すことによって、設定が埋もれることを回避し、またキャラクターの個性を出すことにも成功しているのだ。
ただし、最終的に痣自体が強さの描写にそれほど影響を与えないのであれば、痣が発現する意義とは何なのか。それはキャラクターの強化だと思うのだ。

痣を発現させる風柱こと不死川実弥。
彼は鬼を酩酊させる稀れ血持ちであり、名前の通り致命傷レベルの攻撃でも死ぬことはない。
こういう人や鬼喰いが、呼吸技術を知る前の鬼殺隊員たちの核だったんだろうなと思う。

『鬼滅の刃』と過去描写

鬼殺隊の隊員たちは柱から非戦闘員までほぼ全て過去に縛られた人たちだ。鬼殺隊を称して鬼舞辻無惨は「異常者」と言い、「死んだ人間が生き返ることはない」と言い放った。自分で人を食う鬼をばらまいておきながら酷い言い草だが、確かに見方を変えれば一理あるかもしれない。人間いつまでも取り返しのつかない過去に囚われていても仕方ない、というのはある程度その通りだと思う。過去にこだわる人は永遠に前に進むことはないのかもしれない。過去を捨て前を向いて歩み出した方が、もしかしたら今よりも幸せになれるかもしれない。

炭治郎らに対しておまいうな説法をかます無惨様の図。
無惨の立場になると、別に殺したのは自分ではなく、鬼にした者たちが勝手に殺しただけであり、また自身の目的は青い彼岸花と日光を克服した鬼の発見であるから、
身に覚えのないことで1000年も追いかけて邪魔をしてくる団体というのは
確かに鬱陶しいのかもしれない。それでも酷い理屈ではあるが。

しかし、歴代の鬼殺隊員たちは大切な者を奪った“鬼”という存在をどうしても許せなかった。許せない上に、残念ながら無惨の言う“異常者”ではないので、自分では復讐を果たすことができない、ということを判断する理性も残っていた。そこで彼らは自らの復讐を後世の者に託すべく、産屋敷一族を中心として代々組織や呼吸法を継承してきたのだ。つまり鬼殺隊とは、過去の恨みと古の術理の継承によって力を得ている団体なのだ。この点において、1000年間も生きていながら、未だに満足せず、青い彼岸花や日光を克服した鬼など未知の存在を追い求め続け、決して諦めない鬼の始祖とはそもそも思想の段階から相容れない存在なのだろう。
『鬼滅の刃』とは、永遠の未来を追い求める鬼の始祖と、数珠つなぎになった過去と継承によって復讐を果たさんとする鬼殺隊との物語だと言うことができるかもしれない。そして“痣”とは、彼ら一人一人が過去を克服し、現在に集約したときに初めて発現するのだと思う。
(この考えは別に裏設定がこうだ、という主張ではなく、単に作劇上こうではないかな?という話をしています)

ちなみに筆者は作中一番の異常者はお館様だと思っている。
上は憎しみや恨みという人の想いこそ永遠であり不滅である、と鬼舞辻無惨に説くお館様。
過去への執着が薄い鬼舞辻無惨だが、皮肉なことに自身が過去になした様々な因果によって、
彼は破滅に追いやられていくこととなる。

登場人物と過去

物語の登場人物とは、物語を前に進めるために存在していると筆者は考える。そして、過去を回想している間は物語の進行が停止するため、基本的に過去を振り返る者はロクでもない目に遭う、というのが筆者の考えだが、『鬼滅の刃』の登場人物たちはほとんど過去に縛られている。上弦の三である猗窩座は鬼になって記憶を失くしても、無意識下で過去に囚われ続けていたが、例えば冨岡義勇や竈門炭次郎が鬼にされていても、過去に対する自責の念から意外と猗窩座みたいになっていたんじゃないかと思う。また、猗窩座は炭次郎に首を斬られ、自身の過去を巡る精神世界の中でこのまま首切りを克服した鬼となるか、弱い自分を許して死ぬかの二択を迫られ、回想を終えると結局自害するという道を選んだ。どちらを選んだにせよ、至高の領域を追い求めつつも停滞していた彼にとっては進歩と言うことができる。要するに、物語の世界ではキャラクターは常に変化を求められ、過去に囚われた者は前には進めない、ということだ。
過去に囚われた者は前には進めない。しかし猗窩座の例を見ても、過去を清算できていない、吹っ切れていない人間が前に進めるはずがない、ということもまた事実だと思う。前を向くためには過去を断ち切らねばならないのだ。

激重な過去を持つ上弦の三こと猗窩座。
そりゃあれだけの出来事に目を背けてたら前は向けないよね、という好例。
そしてあの回想シーンからの決断は全米も泣くと思う。少なくとも筆者は泣いた。

ジョジョの奇妙な冒険第6部「ストーン・オーシャン」に登場するエルメェスというキャラクターは、姉をギャングに殺され、その者に復讐するためにわざわざ犯罪を犯して刑務所に入る。
彼女は言う。「自分の肉親をドブに捨てられてその事を無理矢理忘れて生活するなんて人生はあたしはまっぴらごめんだし…あたしはその覚悟(犯人を殺す覚悟)をして来た!!」と。また「「復讐」とは自分の運命への決着をつけるためにあるッ!」という考えを吐露するシーンがある。
この漢らしい(エルメェスは女性だがジョジョ三大兄貴に数えられている)台詞には、失われた故人や、加害者に対してクヨクヨ考えながら生き続けるよりも、犯人をぶっ殺すなり何なりして筋を通し、もう二度と戻らない故人に対しての結論を自分の中で持っておく、そうしないとこの先の自分の人生前には進めない、という視座が含まれていると思う。

エルメェスは復讐のため、スポーツ・マックスという宿敵のいる刑務所に入るために
2回も強盗をしている。その後の自分の人生がどうなるとかは度外視なのだ。
凄まじい精神力だが、彼女のスタンド『キッス』はその精神力に見合ったパラメータを持つ。
(ほぼスター・プラチナと同じという破格っぷり)

前に進む切符としての痣

過去に囚われた鬼殺隊士にもまた同じことが言えると思う。要は痣の発現とは覚醒であり、次のステージに進むための切符である。その切符を得るため、鬼殺隊士たちは過去を振り切る、ないし折り合いをつける必要があったのだと思う。
時透無一郎と甘露寺蜜璃は過去を振り返る走馬灯を経て痣を発現したし、伊黒小芭内は自身の過去の経験から確信を持って自ら痣を発現させた。冨岡義勇は炭次郎によってすでに過去を振り切っていて、不死川実弥はちょっとどうか分からないが(キャラクターの都合上、ウェットな感情を弟の玄弥が肩代わりしている感があるため)、悲鳴嶼行冥はたぶん自分の過去とは折り合いをつけていると思う。でなければ柱の頭は務まらないし、お館様の側近として信頼も厚いので昔のことでくよくよする暇などないだろう。
 
『鬼滅の刃』の特徴として、登場人物の過去が抜群に面白い、ということが挙げられる。変人揃いの柱たちだが、この人たちも昔は色々なことを経験しているんだなぁ、背負っているんだなぁ、ということが伝わってくる(むしろ変人に感情移入できるよう、人間臭い過去を挿入している感もある)。様々な過去模様があるが、どれもそのキャラクターにとっては非常に重要な事、人生を変えてしまうくらいの重たい出来事が描かれている。しかも、ただ過去の出来事を描くだけでなく、その人物のモノローグ(独白)が加えられていて、その出来事に対してその人物がどう感じて、どう受け止めているのかが分かり、自然と感情移入できるような工夫がなされている。

過去の回想+モノローグ+ナレーションが複合しているページ。
筆者は専門家ではないので詳しくは分からないのだが、
しれっと描いているように見えて、実は超高等テクが駆使されているのでは?と思っている。

回想と痣という視覚的な表現がセットになることにより、劇的な効果が生み出されている気がする。痣とは、設定上は寿命の前借りよろしく身体能力を強化する状態であり、作劇上は過去を清算したキャラクターに対して、物語を前に進める力を与える印のように思えるのだ。

終わりに:映像世界の痣

最後に、漫画ではなく映画の世界では、顔に傷を持つキャラクターは、心に取り返しのつかない傷がある、又は人間性に何らかの欠損がある、という風に解釈される。単にビジュアル的にかっこいいから傷をつけようという場合もあるだろうが、基本的にその判断は監督に委ねられており、「じゃあこいつの顔に傷をつけよう」という意思決定する瞬間がある以上、何らかの演出的な意図があると思われるからだ。
そうした意味で、痣とは実に映像的な表現方法であり、取り返しのつかない過去を持つ『鬼滅の刃』の登場人物にふさわしい設定だと思う。過去とは一応の折り合いをつけたが、心の傷が消えるわけではない、しかしそれでも前に進まないと復讐は果たせない。心の傷の発露が痣であり、また過去を当人の中で総括させて、新しいステージに進ませるための切符のような設定が痣ではないかな、と思ったので今回このような記事を書かせていただいた。
長々とまとまりのない駄文、失礼しました。

ちなみに冨岡さんの痣の発現場所は、錆兎に平手打ちを喰らった左頬である。
ここら辺の細かい描写、想いの継承というテーマが感じられて好きなのだがいかがだろうか?

余談1:非人間性の証明としての痣

ちなみに継国縁壱の顔に生まれながらに痣が出ているのは、彼が人間を超越した化け物であることを示しているのではないかと思う。柱のような心の傷としての痣ではなく、非人間性という意味での痣だ。従って痣とは非人間的な強さを持つ縁壱に近づくための段階を、視覚的に表現するための演出である、という解釈も可能かもしれない。

はじめから頂点に立っているが故の達観ぶりを見せつける作中のチート枠・継国縁壱。
上弦の一じゃないが、確かにこんな弟がいたら色々こじらせそうだなと思わせる無双ぶりなのだ。

余談2:物語と回想

『鬼滅の刃』では多用されている過去回想だが、本来作劇の世界では過去や回想を描きすぎるとつまらないものになるので、あまり描きすぎるなという戒めがある。過去描写はどうしても“説明”になりがちであり、その間は物語が全く動いていないからだ。「そんな所から長々と話されても困りますよ。嫌がらせでしょうか」と、読者が胡蝶しのぶのような状態になる確率が高いのだ。『鬼滅の刃』の過去が面白いのは、単純に作者の吾峠呼世晴さんの手腕と資質が抜群に優れているためだと思われるのだ。

要は昔話ばかりしていると、冨岡さんのようにみんなから嫌われてしまう、ということなのだ。

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