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【映画紹介】 『悪魔のいけにえ』 がいかに優れた映画かを語りたい【ネタバレあり】

『悪魔のいけにえ』という映画は、映画史に残る大傑作だと思う。監督であるトビー・フーパーの処女作であり出世作でもあるこの作品は、低予算のホラー映画でありながら、ニューヨーク近代美術館に永久保存されていたりする。見る度に凄まじい映画だなぁ、と思うわけなのだが、今回は『悪魔のいけにえ』という映画の何がそんなに優れているのか、ということを書いていきたいと思う。
 

『悪魔のいけにえ』とは?

物語自体は非常にシンプルなものだ。サリー、ジュリー、フランクリン、カーク、パムの男女5人が、夏休みを利用して片田舎に旅行に行く。途中、ヒッチハイクをしていた男を車に乗せてやるが、どこか様子がおかしい。男の言動には一貫性がなく、ナイフで自傷行為に及ぶなど、狂気を感じさせるものであった。男を追い出した5人は、気を取り直してバケーションに励む。そして、カークとパムがとある洋館に立ち寄ると、いきなり人皮を被った大男・レザーフェイスが出てきて、カークをハンマーで撲殺する。次に解体中の牛肉よろしく、パムをミートフックに引っ掛けるレザーフェイス。

実はこの洋館は、巷を騒がせている墓荒らし一家の根城で、人肉常食者たちの縄張りだったのだ。牛や馬でも殺すかのごとく、レザーフェイスは若者を次々に惨殺し、血祭りにあげていく。一味に捕らえられたサリーは、死の晩餐に(無理やり)招かれ、殺されかけるが、命からがら逃げ出すことに成功する。チェーンソーの唸りをあげ、猛然と追いかけてくるレザーフェイスを振り切り、間一髪で車の荷台に乗り込んだサリーは、朝日が差す荒野の道を行く。

本来は解体した家畜などを引っ掛けるミートフックに、人間なのに引っ掛けられるパム。
その傍でレザーフェイスはカークをチェンソーで解体する。地獄絵図なのだ。

物語は、『13日の金曜日』といった他のホラー映画の王道にも通ずるものがあると思う。人があまりいない場所にバカンスに来た男女が、そこに住む殺人鬼に次々と殺されていく、という筋書きだ。しかし、『悪魔のいけにえ』が特別優れている点は脚本や物語それ自体ではない、物語の語り方、物語を如何にして伝えていくかという“演出”が突出しているのだ。
以下に理由を記していく。
 

1  ホラーとは何か?

そもそも何をもってして“ホラー=恐怖”なのか。諸説あるだろうが、以下のような法則があると思う。
 
・AはBを理解している・知っている
・BはAを理解できない・知らない
・観客もAを理解できない

 
どのような殺人鬼でも、人を殺すときには何らかの感情がでると思う。人殺しが楽しい、性的に興奮する、ただ単に苛ついていた、など様々だろうが、この“レザーフェイス”という殺人巨漢にはそういった感じがほとんど見られない。「なぜ殺すのか?」という問いを、言葉から汲み取ろうとしても、訳の分からない唸り声を上げるだけだし、表情を読もうにも人面皮を被っているのだ。回想シーンもない。従って彼の行動から意図を推しはかるよりないのだが、殺したり殺さなかったりして、行動にも全く一貫性がない。
つまり“レザーフェイス”というキャラクターは、観る側に情報提供することを完全に拒絶しているのだ。悲しげな唸り声をあげたり、家族に怒られてシュンとしたり、傷つけられて怒ったりするような描写はちらほら見られるが、それは瞬間的な情緒であって、彼というキャラクターの全体像を読み取ろうとするには到底足りない。

観た者に強烈な印象を残す稀代のホラー・キャラクターことレザーフェイス。
観客も他の登場人物も、彼が何を考えているのかは分からない。

よって映画を観ていくにあたって、殺されていく大学生の側に感情移入をしていくしかない。このことを先程箇条書きした3つの項目に当てはめて考えると…
 
・A(レザーフェイス)はB(旅行中の男女)を理解している・知っている
 →どんな人かは分からなくとも、表情や叫び声から自分のことを
  怖がっているというのは分かる。
・B(旅行中の男女)はA(レザーフェイス)を理解できない・知らない
 →大学生たちからすれば、何故いきなり殺されるのか分からないし、
  人面皮で表情も読めない・言葉も意味不明である。
・観客もA(レザーフェイス)を理解できない
 →だんだん大学生と同じ気分になってくる。
 
ということになってくる。こういった描写を重ねていった結果、我々は徐々に「こいつ人間じゃない…化物だ」という風になるのだと思う。つまりレザーフェイス側からの情報を遮断することで、だんだんと彼が非人間的なものに見えてくる、という塩梅だ。

監督のトビー・フーパーの視座がまた乾いていて、音楽で恐怖を煽るでもなく、カメラワークで何かを強調するでもなし、「たまたまそこにカメラがあって、たまたま映ってしまいました」くらいの温度で撮っている。(しかも記録映像っぽく見せるために、意図的にフィルムを荒くしているという凝りよう)。その演出がまた恐怖を煽る。非日常の世界のハズなのに、実は日常と地続きの出来事なんだよ、といった感じが強調されていて、恐ろしい気分になってくる。
こうしてホラー映画史に残るキャラクターが出来上がったわけだが、『悪魔のいけにえ』の演出の妙はキャラクター描写だけにとどまらない。

2   異世界への入口=扉、の描写について

こんなヤバい奴がチェーンソーで人を殺しまくって、何のお咎めもない世界。
こんな世界を普通に描いても、通常の手順では現実感は伴わないと思う。
しかし、『悪魔のいけにえ』では成立している。
その裏には、緻密な演出が施されているのだ。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」(川端康成『雪国』より) 。
ホラー映画とはありていに言って“非日常”を描いたものだ。幽霊でも殺人鬼でもエイリアンでも、“日常から逸脱した、人間には到底理解できないもの”を見て、観客は恐ろしさと感じるのだと思う。そのため、ホラー映画では雰囲気とか世界観というものが非常に大切な要素となる。普通に生活している人たち=日常、に、ぽっと出の“非日常的なもの”が入り込んでいるところを見せても、おそらくあまり怖くないし、下手をすると滑稽な描写になりかねないからだ。狼男が日中の新宿に現れても、ただのコスプレだと思われて終わりである。後の展開によってはパニック映画にはなるかもしれないが、ホラーにはなりにくいと思う。従って、おどろおどろしい古城とか、霧に囲まれた陰鬱な街、といった視覚的にいかにも何かが起こりそうな場所設定や、男に騙されて死んだ遊女が化けて出る遊郭、とか世俗から隔絶された場所にある忌み村、といった物語の舞台を非常に限定的にして登場人物をそちらに誘導する、迷い込ませる、というような方法が昔からとられてきたわけだ。 

で、ここからが本題だが、そういった雰囲気や世界観を無視して、物語をホラー的な世界観に引きずり込む方法が(個人的に)存在して、『悪魔のいけにえ』ではそれが、“扉”に関わる演出だったりする。先ほど川端康成『雪国』の一節を引用したが、あの一節はトンネルを抜けると、そこには“異世界”が広がっていましたよ、ということを読者(映画の場合は観客)に教えているわけだ。我々が住む日常の世界と、我々が知らない非日常の世界があって、そこをつなぐ装置としての何か…トンネルでもドアでも三途の河でも、が物語の世界では存在するということだ。 『悪魔のいけにえ』では、非常に印象的な“扉”が描写されている。
“レザーフェイス”の初登場シーンで、カップルのうち男の方が食人鬼たちの家だとは知らずに、ずかずかと家に入って行ってしまう。で、奥の方に例の扉があるのだが、これがもうヤバそうというか、鉄扉の色が鼠色で、真っ赤な壁紙に骨が無造作に飾りつけてあったりして、いかにも不吉な感じがする。案の定、男が扉に近づくと“レザーフェイス”がヌッと現れてハンマーでその男を殴り倒して扉の“向こう側”に引きずりこんで行ってしまう…。彼氏が戻らないのを心配した彼女もついに家の中に入ってしまい、“レザーフェイス”の魔の手に捉えられてしまう。そして扉の向こう側に連れて行かれてしまう。つまり“扉”の向こうには我々の知らない恐怖の世界が広がっている、ということを視覚的に表現しているのだ。“レザーフェイス”がいきなり出てきて若者を殴り倒すだけだと、何か唐突で、物足りない感じがするが、“扉”という映画的な一種の“記号”をかませることで一気にホラーとして成立させているわけだ。

カークを殴り倒した後、勢いよく扉を閉めるレザーフェイス。
日常と非日常を分かつ扉が、そこにはあるのだ。

通常の手順であれば、物語的な文脈を語らないと成立しないと思う。“昔からあのあたりは誰も近づかない…”とワケ知りの地元民が言っているとか、“レザーフェイスがなぜ殺人鬼になったのか?その原因”を回想するとか、何かしらの“説明”を入れてフォローしないと、観客が置いてけぼりになりそうな気がするが、『悪魔のいけにえ』では“扉=異世界の入口”を、効果的に見せることで、面倒な手順を“省略”することに成功している。
 
監督のトビー・フーパ―が凄いのは、この扉描写を引きで撮っていることで、並の監督だったら、ホラー的な緊張感を高めようと、扉を寄りで撮ってしまうと思う。しかし、そこをあえて引きで、レザーフェイスが強引に彼女を連れ去る動作や、彼女の恐怖の叫びや、扉をピシャッと閉めるところを、分割せずにカメラに収めている…分割しないでいることによって、日常と地続きであることが強調され、「その“扉”、あなたのすぐそばにあるかもよ?」ということを視覚的に演出している。

3   非日常が日常となる逆転現象

死の晩餐会に招かれるサリー。彼女は縛られて椅子に拘束されている。
世界一参加したくない夕食なのだ。

物語も終盤、5人いた友人も4人までが殺されてサリー1人になってしまい、彼女も食人一家に捉えられて、新鮮な肉を食べんとする一家の食卓に座らされる…当然サリーは泣き叫ぶが、その様子を見る食人一家は狂喜乱舞している、という地獄みたいな状況が出てくる。
で、そのシークエンスの合間合間に、サリーの目玉のアップが連続で挿入される箇所がある。
この“目玉アップ”の意味は、まず食人一家の異様さを強調するためだと考えられる。目玉→食人鬼たちのはしゃぐ姿、の順でカットをつなぐことで客観的に食人鬼たちの異常性を際立たせたかったのだと思う。
もう一つは、上記のものとは真逆の狙いで、サリーの異常性を際立たせたかったのだと思う。要するに、食人一家にとって、人間を殺して食べることは牛や豚を屠殺して食べることと何ら変わりのない“日常”の出来事であると考えられる。つまり食人鬼たちにとっては、ワンワン泣き叫んで家族の食卓を荒らすサリーこそが、平穏な日常を乱す“非日常”の存在であるといえるのではないか?事実、サリーにも(椅子に縛りつけられてるとはいえ)食事が用意されていたり、「静かにしろ!」とレザーフェイスの兄貴分からマナーを注意されたりしている。レザーフェイスに至っては、彼女のために作業服からスーツに着替え、なおかつ人皮に化粧までしているというおもてなしっぷりだ。

サリーの目玉カット。
本来ならシーンの流れを分断してしまうこのクロース・アップを多用して、
我々観客の意識をリセットし、新しい認識を植え付けたかったのだと思う。
そしてこの狙いは、脚本には書かれていないだろうと思う。
カット割りは演出の範疇であり、トビー・フーパー監督がいかに優れた
演出家であったかを示すショットなのだ。

ここでは正常な感覚を持つサリーこそ異常者なのであり、監督トビー・フーパーの豪腕演出によって、日常と非日常が逆転するという現象が起きている。この局面では食人一家のあり方が正常であり、彼らを前に(獲物のくせに)逃げようともがくサリーこそ異質な存在であると言えよう。
並みのホラー映画だったら、こういった逆転現象は起きないのではないだろうか?ホラー・キャラクターたちは、長い目で見れば所詮日常への“侵入者”であり、社会の異物である彼らはいずれ排斥される運命にあるが、レザーフェイスとその一家は、家族であるがために、守るべき生活があり、維持すべき日常がある。ただただ自暴自棄に暴力をふるう殺人鬼たちとは一線を画する存在で、『悪魔のいけにえ』はそのバランスを絶妙に保ちながら恐怖を描ききっている稀有な映画なのだ。

終わりに

『悪魔のいけにえ』という映画は、レザーフェイスの圧倒的なキャラクター描写や、カット割りの完成度の高さ、16ミリフィルムによるザラザラした質感、などに目を奪われがちだが、何回か繰り返し見ていると、随所に非常に細やかな演出が施されていることが分かる。
『悪魔のいけにえ』が映画史に残る傑作になれた所以は、こういう丁寧な“演出”の力によるものではないか、と思い今回このような記事を書かせていただいた次第である。
 
 以上です。長文・駄文失礼致しました。

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