サウンドの時代における「歌われる歌詞」の特権性の生成 −宇多田ヒカル〈俺の彼女〉における形式・歌唱・歌詞の分析から–

これは、2023年に大学の演習講義の最終レポートとして書かれた文章です。
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序論

 2010年から約6年間の「人間活動」期間を経て、実に8年ぶりに制作された宇多田ヒカルの6作目のアルバムとなった《Fantôme》(2016)。「歌の時代からサウンドの時代」[1]へと変化した現代は、同時に「「歌われる歌詞」の特権性が消失した時代」[2]であり、その変化は1990年代に広まりを見せたJポップに象徴されるだろう。1998年に〈Automatic〉で鮮烈なデビューを果たして以降、Jポップの騎手として「本場」の音を持ち込むことでサウンドの時代をさらに推し進めた宇多田ヒカルは、しかしそのようなサウンド優勢の時代に《Fantôme》というアルバムを制作した(以下楽曲名は〈 〉、アルバム名は《 》と示す)。「日本語で歌う意義や“唄”を追求したかった」[3]、「やっぱり日本語の唄は声と歌詞が全面に出てこないと成立しないので、トラックは極力少なめにしました」[4]という宇多田のインタビューは、《Fantôme》がサウンドよりも「歌われる歌詞」を重視した、「歌謡曲」的パラダイムのもと制作されたことを物語っている。
 本稿では、《Fantôme》の中でも、特にその志向が強く現れる〈俺の彼女〉について論じる。これまで〈俺の彼女〉は、《Fantôme》というアルバムの中でもあまり注目されることはなく、詳しく論じられることもなかった。しかし、〈俺の彼女〉では、サウンドの時代の中にあって、確かに「歌われる歌詞」が楽曲の中で特権的な地位を獲得している。では、〈俺の彼女〉においてそのような「歌われる歌詞」の特権性はどのように生み出されているのだろうか。
 本稿ではまた、〈俺の彼女〉を形式・歌唱・歌詞という三つの水準で分析し、形式と歌唱によって〈俺の彼女〉の「歌われる歌詞」が特権性を獲得していることを明らかにする。では一体、宇多田は特権性を持った「歌われる歌詞」によって何を歌うのだろうか。
 《Fantôme》が、宇多田ヒカルから母である藤圭子に捧げられたアルバムであることは間違いないだろう。そのことは、「「これ、お母さんのことじゃない?」とすぐに気付いた人が多かった」という発言[5]からも楽曲からも読み取ることができる。しかし一方で宇多田は、アルバムに「ジェンダーを超える」[6]というテーマが存在することを明らかにしている。〈俺の彼女〉は、《Fantôme》において「ジェンダーを超える」というテーマが最も色濃く映し出されている楽曲である。しかし、そもそも「ジェンダーを超える」とはどのような状況なのか、またそれはどのように歌われるのだろうか。本稿ではさらに、形式と歌唱の分析によって明らかになった楽曲中での特権性を与えられた「歌われる歌詞」の分析から、〈俺の彼女〉で歌われる「ジェンダーを超える」というテーマについての考察を行う。

1〈俺の彼女〉と転身歌唱 

 はじめに、〈俺の彼女〉の歌詞[7]を以下に示す。

(男性パート1)[8]
俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい
気の利く子だと仲間内でも評判だし
(男性パート2)
俺の彼女は趣味や仕事に干渉してこない
帰りが遅くなっても聞かない 細かいこと
(女性パート1)
あなたの隣にいるのは 
私だけれど私じゃない
女はつらいよ 面倒と思われたくない
(男性パート3)
俺の彼女は済んだ話を蒸し返したりしない
クールな俺は敢えて聞かない 余計なこと
(女性パート2)
あなたの好みの強い女
演じるうちにタフになったけど
いつまで続くの?狐と狸の化かし合い
(女性パート3)
本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい
最近思うのよ 抱き合う度に
(女性パート4)
カラダよりずっと奥に招きたい 招きたい
カラダよりもっと奥に触りたい 触りたい
(中略)[9]
(男性パート4)
俺には夢がない 望みは現状維持
いつしか飽きるだろう つまらない俺に
(女性パート5)
カラダよりずっと奥に招きたい 招きたい
カラダよりもっと奥に触りたい 触りたい
(中略)[10]
(男性パート5)[11]
俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい

 〈俺の彼女〉は、宇多田ヒカルが登場人物である男性・女性それぞれを一人二役で演じた、男女の恋愛をテーマとした楽曲である。とりわけ、宇多田ヒカルが「俺の彼女はそこそこ美人」と嫌味な「男」を演じて歌唱する冒頭の男性パートは、〈俺の彼女〉を強く印象づける部分である。〈俺の彼女〉のこのパフォーマンスを理解するためには、形式・歌唱・歌詞の分析に入る前に、まず「ジェンダー交差歌唱(cross-gendered performance; CGP)」[12]という現象について理解する必要がある。一見当然のように受け入れられている男性パートの歌唱の背後で生じていること、とりわけ演劇的な視点に基づく歌唱における主体の分離について考えることは、次に論じる〈俺の彼女〉の音楽的な形式が果たす機能の分析において重要な意味を持つ。

1-1 転身歌唱とは何か

 このパフォーマンスを理解するためのたたき台として最適なのは、中河伸俊の「転身歌唱の近代」(中河、1999)だろう。以下に中河の議論を整理する。
 中河は、歌唱という行為を演劇的な視点から捉え、社会学者のゴフマンの理論を援用しつつ音楽におけるパフォーマンスの主体を個人-演者-登場人物という三つの層へと分割した。この三層は、たとえば椎名由美子(個人)– 椎名林檎(歌手=演者)–〈本能〉(2000)で「約束はいらないわ」と発話する女性(登場人物)に分けられる。
 中河は、ジェンダー交差歌唱(以下CGPと表記する)を登場人物のジェンダーと演者のジェンダーが交差した状態で行われる歌唱と定義している。先ほどの分割された三層で示した歌手=演者という定式に当てはめると、演者のジェンダー=歌手のジェンダーであることはすぐに理解できる。しかし、登場人物のジェンダーはどのように同定されるのだろうか。交差する主体のジェンダーのうち、楽曲中の登場人物のジェンダーは、歌のシナリオである歌詞のジェンダーによって決定されるのである。
 では、歌詞のジェンダーはどのように特定することができるのか。登場人物のジェンダーを決定する歌詞のジェンダーは、日本語の場合、比較的容易に断定できると中河はいう。それは、日本語という言語が性化された言語であり、さまざまな言語的指標、つまり発話の際のことば使いから発話主体のジェンダーが特定されるためである。たとえば「俺」「私」「あたし」「おいら」などの人称代名詞や「だわ」「だろ」「だぜ」「ね」「かしら」などの終助詞は、主体のジェンダー化を引き起こす効果を持つ。私たち聴き手は、楽曲中の登場人物によってこれらのジェンダー化された言葉が発話されることによって、その発話の主体のジェンダーを決定することができるのである。
 以上のように、CGPは歌詞のジェンダーによって決定された登場人物のジェンダーと、歌手=演者のジェンダーの交差が聴衆に認識されることによって成立している歌唱である。
 ここまで概観したCGPの成立条件に沿って〈俺の彼女〉冒頭部分のパフォーマンスを整理すると、以下のようになる。聴衆は、歌詞から読み取れる「俺」という一人称や「俺の彼女」というという状況的な指標から、「俺」が男性であることをほんの数秒で認識することができる。そこでは、演者である宇多田ヒカルによって登場人物である「俺」が演じられている。認識された登場人物のジェンダーと聴衆が宇多田ヒカルの声から連想する演者のジェンダー[13]とが交差し、冒頭部分の歌唱がCGPとして認識されるのである。以上のように、〈俺の彼女〉をCGPという視点から眺めると、「俺の彼女はそこそこ美人」と歌われる冒頭の男性パートの前提をなすパフォーマンスについてはあらかた理解できただろう。
 しかし、冒頭部分で行われる部分的なCGPのみに注目するのではなく、実際〈俺の彼女〉で行われている歌唱を楽曲全体として聴いたときには、中河が主に論じた、一人の歌手が、楽曲を通して歌手自身とは異なるジェンダーにのみ転身するという形式のCGPとは幾分か異なる様相を呈している。では、それらと〈俺の彼女〉で行われているCGPとはどのように異なっているのか。その差異はどのように機能するのだろうか。
 続く2章では、これまでに概観したCGPをもとに、〈俺の彼女〉に特有の演劇的な形式についての分析を行う。そして、その演劇的な形式が「歌われる歌詞」が特権性を持つことを可能とする基盤となっていることを明らかにする。

2 〈俺の彼女〉に見られる演劇的枠組み

 「演歌」というジャンルが成立した時期に最も栄えたCGP[14]は、一人の歌手が、楽曲を通して歌手自身とは異なるジェンダーの登場人物にのみ転身するという形式が多数を占める。しかし〈俺の彼女〉は、宇多田ヒカル一人が男女二人を演じるという形式によって楽曲が進行していくという点で、それらとは異なる形式を持つ。
 〈俺の彼女〉では、CGP部分の男性パートに加えて、演者-登場人物間のジェンダーが一致した女性パートの合流が行われる演劇的な枠組みが採用されている。中河は、CGPという現象を、歌唱行為を演劇的な視点から捉えることで理解可能にした。一方ここで論じる〈俺の彼女〉は、男女二人の登場人物の掛け合い、つまり文字通り舞台としての演劇の形式が音楽に持ち込まれている。この点で〈俺の彼女〉は、演者によって男女それぞれの登場人物のセリフが発話されるという演出上の慣行をもつ、義太夫・浪花節(浪曲)などの語り物の形式を踏襲しているように思われる。

2-1 転身歌唱の起源と語り物の性質

 CGPとこれら語り物の関係について興味深いのは、中河が提唱したCGPの起源についての仮説だろう。以下に中河の仮説を整理する。
 戦前に栄えた浪花節は1950年代に民放ラジオでブームとなるが、60年代には衰退することとなる。しかし、浪花節の凋落が始まった60年代は、50年代の浪曲ブームに押されて三波春夫や二葉百合子などの歌謡浪曲が流行歌の世界で人気を博した時期でもあった。語り物には、物語の進行部分で演者がナレーターになってそのナレーターの語りに男女の登場人物の発言がはめこまれるという慣行があり、演者-登場人物間のクロスは語り物の伝統の中では常態的に行われていたという。中河はこのような背景を鑑みて、CGPが最も栄えた「演歌」というジャンルの形成には浪花節の歌唱や音楽形式が影響を与えているという「CGP慣行の語り物起源説」[15]を提唱した。
 また、「演歌」というジャンルの形成過程について論じた『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(輪島、2010)においても、現在の「演歌」を最も強く規定するのは浪曲的な歌唱技法(「演歌」のジャンル化において重要な役割を果たした畠山みどりがレコード歌謡に取り込んだパロディとしての浪曲的な意匠を「唸り」という歌唱技法によって確立した都はるみの「唸り節」は、直接的には浪曲に由来するものではないという留保[16]をつけつつも)であり、「「唸り」や触れ幅の大きい「こぶし」がレコード歌謡に入ってくるのは、浪曲の人気停滞を受けて浪曲師がレコード歌謡に転校し始めてから」[17]であることが述べられており(先ほど例に挙げた二葉百合子[18]や三波春夫[19]はともに浪曲師出身である)、「演歌」というジャンルの成立に浪曲などの語り物が影響を与えていることが伺える。
 〈俺の彼女〉で行われているCGPは、「演歌」に代表されるような一人の歌手が楽曲を通して歌手自身とは異なるジェンダーにのみ転身するCGPではない。中河の仮説や、CGPが最も盛んに行われていた「演歌」というジャンルの形成過程を鑑みるに、〈俺の彼女〉で行われているCGPは、起源となった浪曲などの語り物に見られた慣行に近い、男女両演の中で行われる本源的な(=「浪曲的」な)CGPであるといえよう。
 楽曲中のトラックの比重(音が録音されているパート)を減少させることによってサウンドよりも歌詞を強調するという相対的な方法に加え、語り物の形式を用いることによって、楽曲の構造自体が「旋律よりも歌詞の内容を一義的にあつかい、詞章が持つ日本語としての性格が旋律に大きく反映する」[20]という語り物の性質を帯びる。〈俺の彼女〉における「歌われる歌詞」は、サウンドの抑制という消極的な方法のみならず、語り物の形式で歌唱されるが故に生じる、歌詞内容を第一のものとして扱うという音楽的性質の支えを得て、音楽の中で特権を享受するのである。

2-2 宇多田ヒカルの音楽的系譜と〈俺の彼女〉の非物語化

 また、〈俺の彼女〉で行われる浪曲的な音楽形式を用いたパフォーマンスを考える際に、宇多田ヒカルが持つ「音楽一家」としての自己認識は示唆的である。「私の母方の祖父母は浪曲師と瞽女だったので、幼い子供達を置いて出稼ぎに行ったり、母が歌えるとわかってからは彼女も連れて旅をして酒場で流しをしたり、泊まるところがない時はお寺で寝たり野宿をしたりと、とても苦しい生活だったようです」[21]と語るように、宇多田ヒカルには母が藤圭子(昭和のスター演歌歌手)、母方の祖父母がそれぞれ浪曲師・瞽女であるという音楽一家としての系譜があり、宇多田ヒカルがそのことに自覚的であることは大変興味深い。
 だが、〈俺の彼女〉において、語り物という「日本の伝統的な声楽の様式」[22](やそれに伴うCGP)が、自身の音楽的系譜から想起される日本で行われてきた伝統的な「日本語の唄」の連なりを表現することを意図して用いられたものかどうかは定かではない。宇多田は〈俺の彼女〉の制作過程について、制作のきっかけが「現場のディレクターさんの「なんかちょっとミュージカルっぽいよね」みたいな一言」[23]にあると語っている。このことから、日本の伝統的な様式として語り物の形式を取り入れたというよりは、「ミュージカル」という直接的な演劇の要素を音楽に取り入れた結果、音楽全体が語り物の形式に近似し、加えて物語の主題が男女の恋愛であることからその副産物としてCGPが生じたのではないかという推測を立てることができる。さらにそこから、〈俺の彼女〉で行われるCGPは一次的なものではなく、あくまで二次的なものであるという結論を導き出すことも可能だろう。 
 いずれにせよ、本稿の目的は、さまざまなインタビューで語られた宇多田ヒカルが楽曲に込めた想いから「作者」としての宇多田ヒカルの意図を明らかにすることでも、三世代にわたって続く音楽的な系譜の痕跡を楽曲の中から見つけ出し、物語化することでもない。
 そのため、本章で論じられるべきは〈俺の彼女〉に宇多田ヒカルの「音楽一家」としての物語性を見出すことではなく、むしろ楽曲の中で行われている男女両演という演劇的な枠組みがどのような機能を果たし、聴衆に対しどのように働きかけているのかを分析することにあるということを改めて強調しておく。

2-3 演劇的枠組みが果たす機能

 語り物の性質を帯びた演劇的な枠組みが「歌われる歌詞」の特権性の獲得に寄与していることは既に述べた。では、その枠組みは、聴衆に対してどのような効果をもたらすのだろうか。
 中河は、女性演歌歌手である水前寺清子が行うCGPの効果について、「男性の登場人物(中略)がオーディエンスの男性に「男らしく生きろ」と呼びかける」[24]〈いっぽんどっこの唄〉(1966)では、CGPの「演者と登場人物を切り離すことによって、登場人物とそのメッセージを際立たせる」[25]機能によって演者と登場人物が分離したものとして受容され、聴衆の男性性を脅かさないと言う意味で水前寺が聴衆にとって理想の「援歌」歌手たりえていると述べている。しかし、〈いっぽんどっこの唄〉は、作詞者と演者が異なる「演歌」の慣行によって演者と登場人物が切り離され、さらにCGPによってその分裂は強化されているにもかかわらず、メッセージが歌手から聴衆に向けた「呼びかけ」として発せられているために、切り離されたはずの演者と登場人物が「呼びかけられた」聴き手によって再び結合させられている。「年齢を重ね社会的なステータスを確立したのちに、彼女がその系統の持ち歌を歌うのはもはや「オバサンの説教」であり、「シャレにならない」と指摘され」[26]ることは〈いっぽんどっこの唄〉において、登場人物と演者を同一視する契機が生じていることを象徴的に表している。
 他方、作詞と歌唱を同一の主体が担うシンガーソングライターであれば、なおさら登場人物と演者が同一視されるであろうことはいうまでもない。宇多田は、シンガーソングライターによくみられる、楽曲中で演じられる「私」と歌う私が混同された状態で聴取される傾向を認識しており、それを認識した上で、そのような「誤読」[27]を拒むのではなくそれを利用した作詞をおこなっている。「昔の作品にはあまりないですけど、たとえば『道』っていう歌で、みんなが知ってる宇多田ヒカルという有名人っぽい視点で、「調子に乗ってる時期もあったと思います」って歌詞をポンって2番の頭で入れてみたり。歌詞っぽくないし、宇多田ヒカルとしてインタビューで言いそうなことをぶっ込んでみたりする。もっと露骨なのもあって、これも最近の作品なんですが、『嫉妬されるべき人生』という歌で「人の期待に応えるだけの生き方はもうやめる/母の遺影に供える花を変えながら思う」というくだりがあります」[28]という語りからも、シンガーソングライターが行う歌唱が楽曲中の主体の認知に及ぼす効果を機能的に理解していることを読み取ることができる。そのことを逆手に取り、聴衆が登場人物と演者を混同しやすくなるような歌詞を意図的に用いているため、宇多田ヒカルの音楽に主体を見出す際には受け手はより一層登場人物と演者を同一化しやすくなってしまうといえる
 しかし、〈俺の彼女〉が持つ男女の掛け合いという演劇的な形式は、音楽の中で歌詞に特権性を与えることだけではなく、このような聴衆の「誤読」[29]を拒む機能をも果たしている。「俺」は、決してあなたに呼びかけているのではない。聴衆は、物語の外からただ「俺」と「私」が繰り広げるドラマを見ているのである。男女の語りという演劇的枠組みは、素朴リアリズムのドラマツルギー的な女性パートやCGPが行われている男性パートの歌唱を聴く者に対し、一般的なシンガーソングライラーにおいて起こりやすいパフォーマンス主体の三層 (-個人(person)-演者(performer)-登場人物(character)− )を一致させる聴取を拒む機能を果たしている。これはあくまで「演技」なのだと、聴衆に対し「クール」な目線になるように働きかけ、意識を個人(=宇多田光)や演者(=宇多田ヒカル)ではなく楽曲中の登場人物(=「俺」/「私」)に対して向けるよう仕向けている。
 つまり、女性シンガーソングライターが歌う「私」(男性シンガーソングライターが歌う「俺」)は、しばしば個人=演者=登場人物という定式に当てはめられ、歌唱内容が歌手=個人の実体験であるかのようにその音楽的表現を「誤読」[30]される契機となるが、〈俺の彼女〉に見られる演劇的な枠組みは、シンガーソングライターが語る「私」と歌手自身との同化を求める聴衆の欲望(さらには、宇多田自身が意図する両者の混同の誘発)を拒む抑制装置として機能し、聴衆に対して物語へのより深い没入を促すのである。〈俺の彼女〉にみられる語り物の性質を帯びた演劇的な形式は、以上のように機能していると考えられる。
 ただ、このような楽曲中に男女それぞれのセリフ(とそれに伴うCGP)が差し込まれる形式は〈俺の彼女〉に特有のものというわけではない。たとえば、楽曲中に男女それぞれの一人称による歌唱が行われる曲の例として、ポルノグラフィティ〈痛い立ち位置〉(2008)、SHISHAMO〈明日も〉(2017)、Vaundy〈踊り子〉(2021)などが挙げられる。しかし、例に挙げた楽曲は確かに一見男女それぞれの登場人物による歌唱があるため一見〈俺の彼女〉と同様の形式をもつように見えるが、その内実は異なっている。これらの曲では男女それぞれによる歌唱は行われているが、それは必ずしも演劇的な形式ではないのである
 続く3章では、歌唱技法の分析から、歌唱によって登場人物が過度にジェンダー化されていることを明らかにする。さらに、主体が過度にジェンダー化されることによって楽曲中の男/女のジェンダーイメージが固定され、互いに入れ替え不可能な存在となることが、楽曲が演劇的な形式であることの成因条件となっていることを論じる。

3 歌唱のジェンダー化

3-1 演劇的ではない形式 入れ替え可能な「僕」/「私」

 演劇的な形式と演劇的でない形式との差異について考えるためには、その中身を構成するCGPの質的な差異について考えることが必要である。ひとことにCGPといっても、個々に行われるパフォーマンスには質的な差異が存在し、それは主に歌唱のジェンダー化の程度に起因している。そして、この歌唱のジェンダー化の程度が、主にその楽曲が演劇的であるかどうかを決定づけている。
 まず、質的に異なる様々なCGPを比較するためにいくつかの楽曲で「僕」や「俺」と「私」といった主体とその発話がどのように歌われているのかを確認し、その上で〈俺の彼女〉の歌唱がどのようにジェンダー化されているのかを明らかにする。
 たとえば、第1章で述べた「歌詞のジェンダー」の判別要因を参考に、ポルノグラフィティ〈痛い立ち位置〉(2008)やSHISHAMO〈明日も〉(2017)のパフォーマンスについて考えてみる。「あなたが全部悪いんだよ 会いたい」と歌う「私」と「なあ どうしたんだい」と問いかける男性(一人称不明)は、それぞれ「ねえ」(女性パート)や「なあ」(男性パート)といった呼びかけの言葉の使い分けや、男性パートの「その真ん中にいるんだろ?」という語尾と女性パートの「私」という一人称によって発話される「あなたに聞くわ」という語尾の区別によって男女が判別可能になっている。しかし、そこには書き言葉としての差異があるだけで、歌唱のレベルにおいては両者に質的な差異はない。SHISHAMO〈明日も〉(2017)についても、ZARD〈負けないで〉(1993)に連なるいわゆる「元気ソング」の系譜であり、そこで歌われる「僕」と「私」は一人称が書き言葉の上での区別されるのみにとどまっている。また、それ以外の歌詞・歌唱の水準においてもジェンダー的な差異は見受けられない。
 つまり、SHISHAMOやポルノグラフィティが歌う「僕」や「私」は、登場人物の一方の主体が他方の主体に対して差別化されておらず、歌唱の水準において両者を判別することは難しい。これらの楽曲はジェンダー化の程度が微弱であるために、ふと気を抜けばどちらの主体による発話なのかがわからなくなってしまう。その意味で、「僕」と「私」は相互に入れ替え可能な主体であるといえる。「僕」は「私」でもよかったし、「私」は「僕」でもよかった。ある物語が演劇として成立するためには、登場人物の役割が判別可能であり、かつそれぞれの登場人物が入れ替え不可能でなければならず、この点においてSHISHAMOやポルノグラフィティが歌う男女二人の人物が登場する楽曲は演劇的な形式ではないのである。

3-2 演劇的な形式 入れ替え不可能な「俺」/「私」

男性パートの歌唱とジェンダー化の原理

 
では、入れ替え不可能な主体を持つ〈俺の彼女〉においてジェンダー化された歌唱はどのようにジェンダー化されているのだろうか。〈俺の彼女〉を特徴づける過度にジェンダー化された歌唱は、とりわけ先ほど扱った男性パートに象徴される。男性パートを特徴づける、主体を過度にジェンダー化する歌唱技法は大きく二つに分けられる。それは⑴一人称「俺」による歌唱と⑵べらんめい調的な「巻き舌ラ行」による歌唱である。
 一つ目である、一人称「俺」による歌唱にはどのような効果があるのか。ポップソングにおいて、女性シンガーソングライターによる一人称に「俺」を用いた楽曲は比較的少ない。近年女性歌手による「僕」という一人称が増加傾向にあるが、依然として「俺」という一人称を用いる女性歌手は管見ではほとんどおらず、極めて稀といえるだろう。1章でも述べたとおり、日本語は「人称代名詞や文末の女子によって話者の性別が特定される」[31]言語であり、この言語的特性がCGPを下支えする原理となっている。逆説的に、女性歌手が「俺」という一人称で歌唱することは聴衆に対し最も効果的に登場人物=「男性」としてのジェンダーイメージを確立する方法となる。つまり、「俺」という主に男性が用いる一人称を用いて歌唱することによって、女性シンガーが歌う「俺」と発話する主体は「僕」という中性的な表現とは異なる強くジェンダー化された主体となるのである。
 女性歌手による「俺」の歌唱において、〈俺の彼女〉と近似したかたちでジェンダー化された歌唱が行われている数少ない例として挙げられるのが阿部真央〈情けない男の唄〉(2009)や〈情けない男の唄〉(2009)である。阿部真央がこれら二つの楽曲で歌う「俺」による発話を聴くと、一人称に「僕」を頻繁に使用する浜崎あゆみ(〈Days〉(2009)など)や先ほど例に挙げたSHISHAMOとは異なり、強くジェンダー化された主体による発話であることがわかる。その差異は、主に「俺」という一人称がもたらすジェンダーイメージの強化によって生じているといえるだろう。このように、一言でCGPといってもそのパフォーマンスには差異が存在し、その差異は楽曲中で歌われる主体がどの程度ジェンダー化されて表現されているのか、ということをひとつの基準として考えることができるだろう。
 登場人物を過度にジェンダー化する歌唱技法の二つ目は、べらんめい調的な「巻き舌ラ行」による歌唱である。〈俺の彼女〉では、楽曲中の全ての男性パートにおいて「巻き舌ラ行」による歌唱が行われている。「巻き舌ラ行」は、男性パートの出だしの「俺」(お〈れ〉)、男性パート3の「クールな俺」(くー〈る〉なお〈れ〉)、男性パート4の「いつしか飽きるだろう」(いつしかあきるだ〈ろ〉う)「つまらない俺に」(つま〈ら〉ないお〈れ〉に)と楽曲中に数多く散りばめられている。
 舌津(2002)は、このような「ラ行を巻き舌で発音する」行為について、「男っぽい」歌唱スタイルを浸透させた水前寺清子の〈涙を抱いた渡り鳥〉(1964)を例にあげ、「実際問題として、日常そのようなしゃべり方をするのはヤクザか江戸っ子か、いずれにせよ大変限られた種類の人々であり、そのスタイルはリアリズムというよりも、ひとつのフィクションないしはリプリゼンテーション(表象)である。つまり、「男性的」な記号として作られた男っぽさを演じるために使用されるのが巻き舌ラ行なのだ」[32]と結論づけている。〈俺の彼女〉では男性パートでは出だし三文字以内で必ず「俺」や「クール」などに含まれるラ行が耳に入る仕組みになっており、このようなラ行反復のフレーズも〈涙を抱いた渡り鳥〉同様、登場人物が男性的なイメージを獲得することを可能にしている。
 これらの二つの歌唱技法、登場人物を過度にジェンダー化することに寄与する低音で歌われる「俺」・「巻き舌ラ行」を用いた歌唱・ラ行反復のフレーズの使用によって、男性パートには様式化された過剰な男性っぽさが演出されているのである。

女性パートの歌唱とジェンダー化の原理

 一方、男性パートとは対照的に、女性パートでは絶対的に女性性を演出するような歌唱は行われていない(行う必要がない)。女性パートでは「私」という一人称以外は女性的な発話、たとえば「〜なの」とか「〜だわ」のような明確な「女性言葉」は用いられていない。しかしそのような「女性言葉」について考えるよりも前に、女性パートで行われる歌唱が女性による発話であることが明らかなものとして聴き取られる経験を可能とする原理について考える必要があるだろう。「私」や「女はつらいよ」という発話によって主体のジェンダーが明らかになる以前に、女性パート冒頭の「あなたの」という発話のみでそれが「女性」による歌唱だということが認識できる。一体、我々はどのようにして「あなた」と発話する主体が女性であることが認識できるのだろうか。
 一人称が歌詞によって開示される前に声によって聴衆に登場人物のジェンダーが理解される現象が〈俺の彼女〉と同様の経験として聴取されるのが、Vaundy〈踊り子〉(2021)だろう。楽曲全体として男性パート(サビ)と女性パートの往復は見られず、楽曲中に女性パートが一部挿入されるという形ではあるが、〈踊り子〉において聴衆は、女性パートの「あのね」という歌唱のみで主体が女性であると認識することができる。〈踊り子〉は、〈俺の彼女〉とは異なる発話形式を持つものの[33]、主体のジェンダー化においてはその手法に共通点があり、また後述の男性パートと女性パートの背景で演奏される音楽を使い分けている点も〈俺の彼女〉通底する部分があるといえる。 
 このような、一瞬のうちに行われる男女の主体の判別は、女性パートの歌唱を男性パートの歌唱と比較した際の物理的な声の高低や「声の肌理」と呼べるような質的な要因と、我々が持つ社会通念的なジェンダーイメージが結びつくことによって可能になっている。
 声の高低や声の質はジェンダーイメージと密接な結びつきを持っており、聞こえてきた声によってその声持ち主のジェンダーをイメージすることは日常的に行われていることである。たとえば、背後から知らない人に声をかけられたとする。すると、その声の主が男性的な声であるか女性的な声であるかは声の高低で(あるいは声の質と結びつくジェンダーイメージによって)想起できる場合が多い。
 また、たとえば男性の第二次性徴期(少年が男性化する時期)には多くの人に声変わりが起こり、生物学的な性差が声の高低という物理的な要因となって現れる。このような、日常的に経験される声の高低とジェンダーイメージの結びつきは、〈俺の彼女〉や〈踊り子〉で生じる男女の歌唱が瞬時に判別可能であることの理由を裏付けているといえるだろう。
 女性パートが存在することで、男性的/女性的な声に結び付けられるジェンダーイメージと、その声を発する主体がそれぞれに結びつき、相対的に固定される。その結果、それぞれの主体の発話部分では、歌唱によって男女どちらの主体が歌っているのかをすぐに判別することが可能となる。〈俺の彼女〉において女性パートは、男性パートとの対比によって「女性」が歌っているという意識を持つことを聴衆に仕向け、それは男性パートに対しても相互作用的に働き、それぞれの歌唱のジェンダー化の効果を相互的に増幅させるよう機能している。
 以上から、〈俺の彼女〉では、以上のような歌唱を支える演劇的枠組み・男性的な一人称「俺」による歌唱・「巻き舌ラ行」による歌唱・声の高低を主とする男女の主体の区別に寄与する声の質の使い分けという複数の要素が相互に影響し合うことによって、歌唱のジェンダー化が行われていると言えるだろう。このように、〈俺の彼女〉における登場人物は、歌唱による主体のジェンダー化と、「俺」による男性パート/「私」による女性パートの相互作用によってそれぞれが入れ替え不可能な主体となっている。そしてそのことが、〈俺の彼女〉における演劇的な枠組みを成り立たせているのである。

3-3 〈情けない男の唄〉と〈俺の彼女〉の差異

 また、強くジェンダー化されているという点で近似していると述べた〈情けない男の唄〉と〈俺の彼女〉で歌われる「俺」についても、それぞれの曲が聴衆に与える印象は異なっている。〈情けない男の唄〉では、「俺」という強い男性的な一人称が歌われる直前まで登場人物のジェンダーは判別できず、「こんなに本気な俺って すげぇ久しぶりだよ」と「情けない男の唄」という歌詞に楽曲中のジェンダーイメージが集約されていることがわかる。 
 それに対して〈俺の彼女〉は、冒頭の一人称に「俺」を用いた歌唱・「巻き舌ラ行」を用いた歌唱・「俺の彼女はそこそこ美人」に代表される具体性を伴ったジェンダー示唆的な歌詞内容によって楽曲中の登場人物が「肉付け」され、それによる登場人物のジェンダー化によって登場人物の男/女は入れ替え不可能な存在となる。
 このように、〈俺の彼女〉の楽曲中の登場人物は、過度にジェンダー化することを目的とした「俺」・「私」という二項対立的な一人称による歌唱や、声質の使い分け・歌唱技法、歌詞内容によって表象されている。様式的にジェンダー化され、個体化された主体は、聴衆に対して「男女の語り」という音楽の中の演劇的な構造を理解するように働きかける。そして一度理解された演劇的な構造は、歌唱によって装飾された「俺」/「私」のジェンダーイメージを絶えず反復し、固定化させる装置として再び機能するのである。
 以上から、歌唱による主体のジェンダー化が聴衆に対して〈俺の彼女〉が演劇的枠組みであることを認識させるための成因条件となっていることが明らかとなった。

3-4 演奏によるジェンダーイメージの固定と解体

 さらに、おそらく歌唱を支える演奏のレベルにおいても主体のジェンダーイメージの固定と解体に寄与する仕組みが働いている(演奏が果たすジェンダーイメージの解体と再構築については第4章で述べる)。
 〈俺の彼女〉の女性パートと男性パートでは、男女それぞれの発話に合わせて背景で奏でられる演奏が区別されており、男性パート4以前の歌唱部分には、男女の語りにそれぞれ対応する演奏が配置されている。このような詞と音楽との対応は語り物に見られる「詞章の分節単位と音楽上の分節担任が一致する」という[34]性質であり、〈俺の彼女〉は歌詞の演劇的な形式だけでなく、音楽的な構造においてもやはり語り物の性質を踏襲していることがわかる。「俺の彼女は〜」という男性の語りと、「あなたの〜」という女性の語りでは背後で演奏されるメロディが異なり、かつそれぞれのパートで奏でられる音が固定されているという二項対立的な音の割り当てによって、メロディが聴衆の認知に影響を及ぼし、登場人物のジェンダー化に寄与していると考えられる。
 歌唱による登場人物のジェンダー化は、以上のように行われている。入れ替え不可能な「俺」/「私」を形成する歌唱によるジェンダー化は、歌唱技術をメインとしつつも、それを支える語り物的な形式・主体のジェンダーを印象づける歌詞・男女の立ち位置を二項対立的に区別する背後で演奏される音という、複数の要素の相互作用によって行われるものであった。
 これらの相互作用によってもたらされた過度にジェンダー化された歌唱は、様式化されたジェンダーイメージを聴衆にもたらすと同時に、演劇的な形式で「語る」登場人物に個別性を与える。
 ポルノグラフィティやSHISHAMOが歌う「僕」/「私」は入れ替え可能であるのに対し、宇多田ヒカルが歌唱する「俺」/「私」は入れ替え不可能なかたちで存在しており、その意味で〈俺の彼女〉は歌手が登場人物を演じることによって成立している文字通り演劇的な歌唱であるといえるだろう。そして演劇的な形式を持つことによって、「歌われる歌詞」は特権性を手に入れる。歌唱と形式はこのようにして密接な結びつきをかたちづくっている。
 では、そのような歌唱によって「歌われる歌詞」、歌唱と形式に支えられ特権性を享受する歌詞によって、宇多田ヒカルは何を歌うのだろうか。

4 「歌われる歌詞」がもたらすアイロニー

ここまで形式と歌唱について論じてきた。既に述べたように、それらは「歌われる歌詞」を装飾することによって、相互反復的に歌詞に特権性を与えているのであった。音楽の中で特権的な地位が与えられた歌詞によって宇多田ヒカルは何を歌い、その歌詞はどのように機能しているのか。
 先ほど述べた歌唱の分析でも触れたが、〈俺の彼女〉における「歌われる歌詞」は「俺」の男性っぽさの獲得に寄与し、主体のジェンダーイメージが固定化するよう作用している。しかし同時に、「歌われる歌詞」はこの楽曲によって「ジェンダーを超える」ことを可能にするような機能を果たしている。
 では一体、男性っぽさを強化すると同時に、「ジェンダーを超える」ことにも機能する歌詞とは、どのようなものなのか。そもそも、「ジェンダーを超える」とはどのような状態を指すのだろうか。本章では、それを明らかにする。

4-1 ジェンダー規範確立の必然性と物語世界の二重化

 宇多田ヒカルは過去数多くの曲で、積極的に脱ジェンダー的な作詞を行なっている。それは人称や語尾において、たとえば、一人称に使われる「僕」(〈traveling〉(2002)・〈日曜の朝〉(2006)・〈Kiss & Cry〉(2007)・〈Fight The Blues〉(2008)など)や、主に女性的な主体の一人称として用いられている「わたし」の語尾を男性的な語尾である「ぜ」とともに用いる(「女の子に生まれたけど/私の一番似合うのはこの色/もう何も感じないぜ」〈BLUE〉(2006))などの人称や語尾の組み合わせによって、作詞においてはあくまでジェンダーイメージを流動化させることが志向されていた。
 しかし、〈俺の彼女〉の冒頭部分では、過度に強調された規範的なジェンダーイメージが提示されている。では、これまでジェンダーイメージを流動化させることを志向していた宇多田ヒカルが歌う(主に冒頭の男性パート1〜3)、強調され、固定化されたジェンダーイメージにはどのような意味・効果があるのだろうか。
 この問題を考える際に重要なのは、「型」の存在である。聴衆にまず喚起させるのは、欠けたところのない自慢げで嫌味ったらしい男性の姿である。ここで描かれる男性は、非常に「男っぽい」男性像である。そしてそれは歌唱によって過剰に装飾された男性像でもある。歌唱技法によって様式化された男と、男にとって理想的で都合の良い女に見て取れる過剰な男性っぽさとその男性が理想化する女性像は、〈俺の彼女〉における規範(=「型」)として提示される。
 しかし、男性によって理想化されている彼女は、「あなたの隣にいるのは私だけれど私じゃない/女はつらいよ/面倒と思われたくない」という独白(女性パート1)によって、「理想的な彼女」の姿が自己を抑圧してはじめて成り立つ虚構であることが明らかにされる。最初に独白が行われるこの女性パート1は、〈俺の彼女〉において非常に重要な箇所である。なぜならば、その独白によって、物語世界に内面/外面あるいは現実/虚構という二重性が与えられるからである。「私」の独白によって、「俺」が見ている「俺の彼女」像が幻であることを聴衆は知り、さらに規範的ジェンダー像の裏に潜む「私」の二重性を知った聴衆は続く男性パート3で「俺の彼女は」と語る男を冒頭の男性パート1・2で「俺の彼女は」と語る嫌味な男とは区別し、「俺」に滑稽で哀れな姿を見る。男性パート3の「俺」が、男性パート1・2と同様の内容を歌っているにもかかわらず滑稽に感じられるのは、その物語が表層/深層に二重化されたことが聴衆に理解されてるからであり、その二重化による「深み」の表出をより効果的に演出するためには、まず物語の表層を強く聴衆にイメージさせる必要がある。そのため、「俺」には規範的なジェンダーイメージが与えられ、それも過度に装飾された姿で聴衆に提示されていたのである。
 宇多田はこのような登場人物が持つ二重性とそれに伴う物語世界の二重性を、「歌われる歌詞」によって極めてアイロニー的に表現している。

4-2 パロディ化された男性像

 宇多田は、文字としてのことばと「歌われる歌詞」の質的な差異に気が付いている。〈俺の彼女〉においては、一見理想的に見える嫌味ったらしい「俺」を表す歌詞に対し歌唱による男性っぽさの過剰な強調という装飾が施され、それゆえによってここで歌われる男性像はあくまでパロディ的に描かれている。そのため、女性に共感する人はいても、冒頭の男性に共感する男はいないだろう。なぜならば、そのような「人工的な表現」[35]が生み出す、「形式・約束としての「っぽさ」は「実はそうではない」」[36]ことを示す虚構の姿であるからだ。
 男性像のパロディ化は、文字としての歌詞によってではなく、「歌われる歌詞」によって生じている。「俺」があくまでパロディ化された男性として描かれていることによって、物語中の規範(男性パート1で示される男性像)としてのジェンダー像を、聴衆は真剣には受け取らない。歌唱による過度なジェンダー化が行われているために、聴衆は「俺」を「本当の姿」として受け取ることができないのである。
 このように、歌詞と歌唱による過度なジェンダー像の様式化は、冒頭で提示される男性っぽさに対するパロディ化を引き起こしている。物語の終盤、男性パート4で行われる男の「俺には夢がない」という独白によって、冒頭の「俺」が抱える二重性がようやく聴衆にも意味のレベルで理解できるようになるのだが、しかしそこに至るまでに聴衆はパロディ化を引き起こす歌唱によって嫌味な「俺」が抱える二重性の予兆を聴き取っている。

4-3  演奏と「歌われる歌詞」のアイロニー

 ジェンダーイメージの二重化を引き起こす歌唱によるパロディ化に加えて、〈俺の彼女〉の最も特筆すべき部分は男性パート4で行われる強烈なアイロニーの現前である。「俺には夢がない」「望みは現状維持」という歌詞は、その否定系のレトリックによって、聴衆に対して暗黙のうちに評価されるべき生き方としての演歌的な男の“道“[37]があることを肯定的な語を用いるよりさらに強くイメージさせる[38]。つまりここで歌われているのは、「夢を持ちそれに向かって邁進する」といった演歌的な”道”が示す、「男らしさ」の規範に適応できないことへの後ろめたさ、あるいはそれによって「つまらない」と評価されることへの恐怖である。
 「俺」が抱える弱さの告白(聴衆はこの告白を聞いている)によって理想的な彼女を持つ羨ましい男性が提示してきた規範的なジェンダー像は崩れる。しかし、規範の背後に隠れた「俺」が抱える弱さを歌うまさにその歌唱は、最も強く「ラ行の巻き舌」が行われている箇所であり、つまり楽曲中で最も男性っぽさを強調している箇所でもある。この部分は、聴衆に対し、「最も男性的な歌唱によって、ジェンダー規範的な“道“がもたらす抑圧が暴かれる」という強烈なアイロニーとなって理解されるのである。
 そして、そのアイロニーは、その歌唱を支える演奏のレベルでも表現されている。「男の弱さ」が吐露される男性パート4の語りには、それまで女性パートに対応していた音楽が配置されている。つまり、「俺には夢がない」という男性規範的なジェンダーイメージへの疲れを吐き出す語りでは、それまで女性パートと組み合わされていた楽曲内での女性性と結びつくメロディが交差的に布置されている。ここでは、「俺」の語りに対応していた男性性を持つメロディと「私」の語りに対応していた女性性を持つメロディという「俺」–男性性/「私」–女性性という主体と演奏の組み合わせが、「俺」に女性性が対応するように組み替えられている。
 これは、「俺」という男性規範的な存在が持つ女性性の発露、あるいは「俺」が持つ男性性の解体だと解釈でき、演奏によって、物語世界の登場人物に付与されたジェンダーイメージの流動化がなされているといえる。このように、歌詞だけではなく、登場人物の発話を印象付ける演奏のレベルにおいても、ジェンダーイメージに対してアイロニカルな意識が向けられるような仕掛けが施されている。
 「ジェンダーを超える」ことは、男女それぞれの、規範に適応的な姿(=表層)とその規範がもたらす抑圧された「本当の」姿(=深層)という二重性が現前することによってはじめて可能になる。つまり「ジェンダーを超える」ことは、特権性を持った歌詞による、男女それぞれが持つ共犯的な二重性が暴かれるという歌詞と声の水準による「型」の内破と、「俺」の語りに布置された「女性性」を持つ演奏によって「俺」に与えるジェンダーイメージが解体され、再構築されるという演奏の水準の複合的聴取によって達成されるのである。
 〈俺の彼女〉における特権性を持つ「歌われる歌詞」は以上のように生じ、その機能を果たしている。

5 結論

本稿では〈俺の彼女〉に行われているパフォーマンスを形式・歌唱・歌詞という三つの側面から分析した。そこで明らかとなったのは、語り物的な形式・主体の過度なジェンダー化に寄与する歌唱によって、楽曲内での特権性を得た「歌われる歌詞」が、ジェンダー規範に対する強烈なアイロニーとして機能していることであった。ここまで論じてきた三つの水準それぞれを完全に分離して論じることはできない。これら三つの要素を切り離して論じることができないことは、それぞれの水準を議論する際に、別の水準によってもたらされる機能を持ち出す必要があった本稿の論述をみても明らかだろう。
 本稿は《Fantôme》が宇多田ヒカルから母藤圭子への追悼歌や鎮魂歌として存在しているのだといった意識を過剰に作りだすことも、宇多田ヒカルの音楽は母である藤圭子から受け継がれてきたものなのだという物語を作り出すことも目的としてはいない。むしろこうした物語として受容されがちな宇多田ヒカルの音楽を、形式・歌唱・歌詞の相互作用を分析し、技術的な水準で捉えることこそを目的としたものである。歌唱技法や形式が聴衆にもたらす効果について考えることは、宇多田ヒカルの音楽をより明晰に理解することを可能にするだろう。
 以上の議論によって、〈俺の彼女〉における形式・歌唱・歌詞が楽曲に対しどのような効果をもたらすのかを明らかにした。音楽を言葉で語ることの無謀さを思いつつも、本稿が《Fantôme》というアルバムの中での〈俺の彼女〉を別の視点から眺めることを可能にしたならば幸いである。

【註釈】

[1]増田聡『聴衆をつくる-音楽批評の解体文法-』青土社、2006年、101頁
[2]同上
[3]「宇多田ヒカル、新作『Fantôme』を大いに語る「日本語のポップスで勝負しようと決めていた」Real Sound、2016年、https://realsound.jp/2016/09/post-9393.html(最終閲覧:2023/1/25)
[4]同上
[5]同上
[6]「宇多田ヒカルが語る 自由になって得た、言葉の力」『ぴあMUSIC COMPLEX Vol.6 (ぴあMOOK)』ぴあ株式会社、2016年、15頁
[7]・dミュージックhttps://dmusic.docomo.ne.jp/song/S1003534036?ds=1004912947(最終閲覧:2023/1/25)
[8]男性パート1~5・女性パート1~4という区分については引用者による補足。
[9]フランス語の詞が入るが、歌詞内容としては女性パート4・5を反復した内容であるため今回は省略した。
[10]同上
[11]男性パート5は引用者による補足。
[12]中河伸俊「転身歌唱の近代-流行のクロス・ジェンダード=パフォーマンスを考える」、北川順子編著『鳴り響く〈性〉日本ポピュラー音楽とジェンダー』勁草書房、1999年、238頁
[13]ここで注意すべきなのは、演者のジェンダー、歌手のジェンダー、個人のジェンダーの関係である。宇多田光は、自身が「ノンバイナリー」、つまり自身の性自認に男性/女性という枠組みを当てはめないセクシュアリティであることを明らかにしている。しかし、たとえばそのことを知らない人(たとえ知っている人でも)が〈俺の彼女〉を聴けば「俺の彼女は」と歌う演者を、「女性的な声で男性を演じて歌唱している女性歌手」だと認識するだろう。つまり、ここで問題となるのは、個人=宇多田光のジェンダーではない。我々が問題としなければならないのは、歌手の身体ではなく、我々が聴取する声とそれに結びつくジェンダーイメージである。
[14]中河伸俊、前掲書、252頁
[15]中河伸俊、前掲書、255頁
[16]輪島祐介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社、2010年、95頁
[17]同上、93頁
[18]TOWER RECORDS アーティスト詳細、https://tower.jp/artist/283109/%E4%BA%8C%E8%91%89%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90(最終閲覧:2023/2/1)、音楽サイトCDジャーナル(2012/7/30)より転載
[19]TEICHIKU RECORDSオフィシャルサイト 三波春夫プロフィール、https://www.teichiku.co.jp/teichiku/artist/minami/profile/(最終閲覧:2023/2/1)
[20]蒲生郷昭「「語り物」の用語史」、時田アリソン・薦田治子編 『日本の語り物-口頭性・構造・意義-(国際日本文化研究センター共同研究報告)』東洋音楽研究、2002年、(68)、19頁
[21]又吉直樹・宇多田ヒカル、「対談 深淵から生み出されるもの」、『文學界』文藝春秋、74(1)、2020年、148頁
[22]蒲生郷昭、前掲書、19頁
[23]「宇多田ヒカル8年間のすべてを語る 活動再開と『Fantôme』の真実、そして今思うことまで–」『ロッキング・オン・ジャパン』ロッキング・オン、2017年、31(10)、90頁
[24]中河伸俊、前掲書、259頁
[25]同上
[26]同上
[27]増田聡、前掲書、111頁
[28]又吉直樹・宇多田ヒカル、前掲書、135頁
[29]増田聡、前掲書、111頁
[30]同上
[31]舌津智之「うぶな聴き手がいけないの」『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』ちくま文庫、2002年、109頁
[32]同上、113頁
[33]女性の発話が男性の発話との関係を持たないという点で、〈踊り子〉は〈俺の彼女〉と大きく異なる形式であるが、それは演劇的な形式を持たないというわけではない。「ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ」(ピーター・ブルック、高橋康也・喜志哲雄訳、1974年、7頁)というイギリスの舞台演出家ピーター・ブルックの演劇観に立てば、〈踊り子〉にも演劇性は存在するといえるだろう。
[34]薦田治子「語り物の音楽構造」、時田アリソン・薦田治子編 『日本の語り物-口頭性・構造・意義-(国際日本文化研究センター共同研究報告)』東洋音楽研究、2002年、(68)、171頁
[35]舌津智之、前掲書、113頁
[36]同上
[37]中河伸俊、前掲書、252頁
[38]Wegner, D. M., Schneider, D. J., Carter, S. R., & White, T. L."Paradoxical effects of thought suppression. Journal of personality and social psychology", 53(1), 5, 1987, Wegner et al. (1987)は、「シロクマのことを想像しないでください」と否定系で指示された調査参加者が、「シロクマのことを想像してください」と肯定系で指示された調査参加者よりもより強く・脅迫的にシロクマについて想起したという逆説を明らかにした。

【参考文献一覧】

・dミュージックhttps://dmusic.docomo.ne.jp/song/S1003534036?ds=1004912947(最終閲覧:2023/1/25)
・蒲生郷昭「「語り物」の用語史」、時田アリソン・薦田治子編 『日本の語り物-口頭性・構造・意義-(国際日本文化研究センター共同研究報告)』東洋音楽研究、2002年、(68)、19-38頁
・薦田治子「語り物の音楽構造」、時田アリソン・薦田治子編 『日本の語り物-口頭性・構造・意義-(国際日本文化研究センター共同研究報告)』東洋音楽研究、2002年、(68)、171-180頁 
・増田聡『聴衆をつくる-音楽批評の解体文法-』青土社、2006年
・又吉直樹・宇多田ヒカル、「対談 深淵から生み出されるもの」、『文學界』文藝春秋、74(1)、2020年、130-152頁
・中河伸俊「転身歌唱の近代-流行のクロス・ジェンダード=パフォーマンスを考える」、北川順子編著『鳴り響く〈性〉日本ポピュラー音楽とジェンダー』勁草書房、1999年、237-270頁
・ピーター・ブルック、『なにもない空間』、高橋康也・喜志哲雄訳、晶文社、1974年
・プチリリhttps://petitlyrics.com/lyrics/2464995(最終閲覧:2023/1/25)、歌詞投稿コミュニティサイト
・TEICHIKU RECORDSオフィシャルサイト 三波春夫プロフィール、https://www.teichiku.co.jp/teichiku/artist/minami/profile/(最終閲覧:2023/2/1)
・TOWER RECORDS アーティスト詳細、https://tower.jp/artist/283109/%E4%BA%8C%E8%91%89%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90(最終閲覧:2023/2/1)、音楽サイトCDジャーナル(2012/7/30)より転載
・「宇多田ヒカルが語る 自由になって得た、言葉の力」『ぴあMUSIC COMPLEX Vol.6 (ぴあMOOK)』ぴあ株式会社、2016年、11-18頁
・「宇多田ヒカル、新作『Fantôme』を大いに語る「日本語のポップスで勝負しようと決めていた」Real Sound、2016年、https://realsound.jp/2016/09/post-9393.html(最終閲覧:2023/1/25)
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・輪島祐介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社、2010年
・Wegner, D. M., Schneider, D. J., Carter, S. R., & White, T. L. (1987). Paradoxical effects of thought suppression. Journal of personality and social psychology, 53(1), 5.
・舌津智之「うぶな聴き手がいけないの」『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』ちくま文庫、2002年


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