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鵞鳥の額

通勤時間帯より少し早い時間。
わたしは都会へ向かう電車に乗り込む。
パーソナルスペースに余裕はあるけれど、ふかふかの座席には座れない。それくらいの混み具合だ。

もうすっかり日が昇るのも早くなった。
朝の光が車窓を過ぎゆくマンションの壁をサーモンピンクに染めて、チャコールグレーの影が美しい。
今日も快晴だ。晴れ女っぷりに磨きがかかっていく。

今年に入ってからというもの、友達と会うとなると朝雨が降っていても昼には晴れているくらいの強運を持っていた。
それも大体は気持ちいい青空が広がる快晴だ。
去年はずっと曇り女だった。雨にざっと降られることは少なかったが、太陽の光が差さない曇り空の中にいることが多く、いつも「今日もどんよりしてんなあ」と天に悪態をついていた。


都会へ向かう朝の電車はどことなく澄んだ空気とくすんだ顔の人々を乗せて走る。
座っている人の目は手元のスマホか瞼の裏を見ている。
わたしはなるべくパーソナルスペースを広く取れる場所に移動しようと、人の間を潜り抜ける。
意図しないタイミングで他人の体や荷物と触れ合うのがすごく苦手で、たとえ親しい友人であっても電車の揺れなどで意図せず触れ合うのはストレスになってしまう。面倒なところで神経質な性格をしているのだ。

ちょうどいいスペースを見つけてするりと入り込むと、なぜそこが「ちょうどいいスペース」になっていたかを理解した。
脚。黒スキニーが張り付いた、叩けば折れそうな脚がそのスペースには投げ出されていた。

上体部分のスペースは完璧だ。ちょっとの揺れでは誰もわたしと触れ合わない。
だが、下方。少し長めの黒髪をワックスでバチバチに決め、イヤホンを耳に詰め込み、手元のスマホを退屈そうに見ている男子大学生と思しき人物の、左脚に右脚をのっけて膝からぽきりと折れ見事に組まれた脚が、そこにはあった。

はあああ。シンプルに邪魔。

近寄ればその長い御御足の靴底でこちらの服が汚される。それも電車が揺れれば意図しないタイミングでソフトキックを決められるわけである。
なんという苦行。こういう輩がわたしは嫌いだ。

電車で足を広げて我が物顔で座るとか、公共の場でバカでかい声で喋るとか、飲み会の席で「鶴ちゃん何カップなの?」なんて誰も得しない質問を大声でするとか(ああ、一発ぶん殴っておけばよかった)、周りを顧みない行為をする人がとんでもなく苦手だ。
1人残らず毎日ハトにフンを落とされたりタンスの角に小指をぶつけたりすればいいのにと思う。


タンチョウのようなすらりと伸びた脚を組んだ男子大学生は、黒い暖かそうな上着を着ていた。
ふ、と上着の左腕についたワッペンに目が留まる。

赤白青、カナダの地図。
出たよ、カナダグース。

シンプルに邪魔な黒スキニーをちらりと一瞥し、流行に乗って買ったであろうカナダグースはさぞ暖かいのだろうと想像する(カナダグースは別に悪くないし、暖かそうでいいなと心から思っていることだけは弁解しておく)。
フードについた灰色のファーは、彼のバチバチの黒髪と同じように自信ありげな毛流れをしている。
空いた襟元には白い首筋と赤いVネックのニットが見えていて、黒・白・赤の対比が艶めかしい。
スマホをいじるその指は白く細長く、タンチョウの透き通った羽を思わせる。


数秒。ほんの数秒「シンプルに邪魔」と思っただけの相手のことを、ここまでしっかり覚えている自分のアタマ。
これがいちばん神経質で面倒で邪魔で嫌いだな、と思った。

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