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身体と精神の関係

「健やかな身体に健やかな精神が宿る」というフレーズは誰が唱えはじめたのだろうか。なんとなくわからんでもないと思う反面、流石に思想がマッチョに都合が良すぎるから総力戦の時代に為政者によって祭り上げられたのだろうかなど考えていた。調べたらすぐに所以は見つかり、古代ローマのユウェナリスという風刺詩人が「orandum est ut sit mens sana in corpore sano.」と書いたものが「A sound mind in a sound body」となり、今に繋がるのだという。軍国主義のくだりはモロにそうだったみたいで、おそらくその流れでわたしに物事を教えてくれた大人たちが知っていて、続いてわたしも知るところになったのだと推測できる。

そもそも元を辿ると動詞もないフレーズがご丁寧に動作を以て表現されているところに、そのご都合が垣間見える。「なんとなくわからんでもない」と書いたがこれも果たしてそうなのだろうか。傷病のある人は気持ちまで病んでしまっているとは一概に言えるだろうか。極端な話をすると特に不慮の事故による怪我などはそうだ。どれだけ希望が薄くても一縷の望みをかけて懸命にリハビリに取り組む人たちに「健やかな身体に健やかな精神が宿る」なんて残酷な言い方を誰ができるだろうか。捉えようによってはあまりにも失礼な物言いである。

そもそも健やかさや健康といったものについての尺度にはどれ程の確からしさがあるのだろうか。身体についてはまだしも精神についてはやはり想定があてにならない場面が多々ある。夜には穏やかに談笑していた人が翌日首を吊ろうとしていることもあると聞く。本当によくわからないものだ。余談だが、このような場面に実際に応対したことはないものの、気持ちの上下が激しい話はインターネットにはありとあらゆるものが溢れている。まだその光景を、背景の事情も、ちゃんとさらえているわけではないのに食傷気味になる。

わたしたちが何故生きるのかを考える場面で、一つの答えとして、生きているから生きているのだという答えにならない回答ができる。身体が生きている、生を受けたために生きている、と言葉を出した方がわかりやすいフレーズだと思う。どこかから聞いたものだが、こちらもなるほど一理ある気がする。わたしたちは生きていく中で目的こそあれこれ勝手に拵え、道のりを定めて進んでいくし、社会はそのための仕組みを長い歴史の中で整えてきた。わたしがどう言っても、人間として生きるわたしは10年前の少年時代には人間社会の中では戻れないようになっている。

別にやってみても構わない。会社をやめて雀の涙程度の退職金と掛け続けて一切儲からない持株会の払い戻しを受けて、北海道の外れに部屋を借りて、再受験だろうが編入だろうがなんだりをして学校へ入ってやっても構わない。それも有意義な時間になるはずだと思う。妹と同年代の学生と机を並べて授業を受けてもいいし、昔お世話になったところに片っ端から頭を下げて昼間の短い時間でいいから使ってもらっても、食っていけるはずだ。でもそこにいるのは10代の純真無垢で体力が有り余ったわたしではない。それなりの泥水を啜ってきた小汚いわたしなのだ。時間を遡ることは絶対に無理なのだ。

なんとなく身体が衰えるにつれて、精神も歳をとるように漠然と思っていた。そんなのは大間違いだ。いつだって今日が1番若いわけだしやれることはしかるべきプロセスを踏めばできる。気持ちであっても、考えていることだって多少の余計な知識や経験をつけたくらいで根本では変わっていない。ただ身体だけは絶対に一方向の動きをしている。人は生まれ育ち衰えそして死ぬのだ。頭の中でどう生きていくかを考えていても身体は勝手に時間の中をゆっくり進んでゆく。右へ左へあれこれ書いてきたけど、不確かな意識よりも確かな身体に流れる時間は間違いなく、今目の前にある現実に身体を含めて働きかけていくことが、生きることにほかならないのではないだろうか。

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