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日常に祝福を

眠れぬ夜は続く。地下鉄の隅で小さく丸くなるように座り、脚は閉じて、足元のラインを出ないように慎重におさめて、自分がどれだけの場所を食って生きているのかを少し悔いながら過ごすのは、心が参っていることのサインを目の前に提げられて過ごすような感覚に近い。それでも時間はすぎ、本質的な問題は何も解決することはない。電話をかけて話をしても、半分ほどは伝わっているか怪しいし、汲み取れているかもわからないけど、それでも言葉を重ねて、少しでも相手がいる世界に自分もいるのだと考えていたくて、思いだけが募るように目の前の場面は過ぎてゆく。つまるところ何が言いたかったのかは、話し始めたときから二転三転してゆき、ただ冷静にしかならざるを得ない自分自身を知るだけで、首元を冷たい風がなでるように吹いていた。

トラブルはたいてい突如として起こり、自らの意思なく勝手に巻き込まれていくものだと思っており、たったか月額数十万ぽっちの給料はその対価と言われて納得し難いものもあるけれど、そう言うものだと言い聞かせて働いてきた。これが10年近く続いて得られたものは社会への切り口として非常にラディカルなものが、本人はさておき周囲に波紋を起こし、存在そのものがトラブルになるという経験と言える。あくまで主観的な測定であるために、普遍のものであるかどうかはわからないか、一定程度の理解を得られるものだとは思っている。とにかく唐突に想定のなかったことを言い出されると面食らうことは確実な気がする。管理職ではないものの、それに近いものに求められる姿勢とはなんぞやと会社の研修で問われたときに、的確に判断することだと言ったことがあるのだが、講師からすると、そもそもそれ以前にただ話を聞くことが大切なのだそうだ。話される内容はさておき、とにかく話を聞いて口を挟まない姿勢でないと、諸々話そうとも思ってもらわず、後々のことを考えるとただ聞いておくことの意味が出てくるのだという。昨今留意をしているものの、ただただ話を聞くことというのは案外難しい。

相談を受けたり、自らなんらかの提案をしなければならない状況があるなかで、相手が話題こそ持っているとはいえ、一から十まで話を聞いて、双方の認識の擦り合わせを行えというのは、こちらの使う言葉の意味合いがそれだけ時間に均したときに価値の高いものでなければならない。しかしながら使えるものは最初からある程度の限界があるわけで、とにかく場数をこなすことでこの価値を向上させていくことが求められることではあるのだろうと、薄々察しはつくものの、この考えが、この方針が後々自分を救ってくれるのかは誰にもわからない気がする。

真面目に物事に向き合うことは、辛いことが往々にしてあるのだけれど、淡々と解決のための整理をしていくことにより、さほど何か手を下さずとも勝手に解決することが多い。感情的になって逃げていても仕方がなく、ただただどのようにすればいいのか考え続けるほかない。辛いことを辛くないように感じることは無理なので、その歪みで何かが壊れていくことはしばしばあるものの、それでも自分の好きなものに触れる時間や、そもそもそうやってしか生きていくことができないのだからという諦めや、人それぞれに捉え方もそれぞれあるのではないかと思う。だからこそただ生きていくことは素晴らしく褒められる行いではないだろうか。

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