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嫌なこと全部やめてしもたらええやん

ご無沙汰しております。ようやく身の回りの整理がついてきたのでここ数日思っていたことを書いていくことにします。そもそもこのnoteを始めるにあたって私は下記の記事を書いています。

なので、私がわざわざ毎度のように「思ったことを書く」と書くことはほとんど無意味なのですが、なんとなくこうしておかないと自然な始まりではないような気がしています。意味のないことだと自分でも分かっていながらやることにはこれまた何の意味があるのでしょうか。その問いかけを続けることにもどのような意味があるのでしょうか。これは「そんなことは意味がないからやめろ」という意味の反語の類ではなく、ただ純然とした問いかけです。答えとして考えつく限り私らしさを表すものはひとつしかなく、それは、物事は単純な時点に区切られるようなものなどほとんどなく、大体の場合は過去の物事の流れを汲んでいてその中で実際対象物自体が流れゆくものだからです。文章も唐突に始まることも技法の一つとしては大いに有効ですし、意図されているのならばこういうものとして捉えられるのですが、そうでなければ無難に書き出しておくほうがいいと考えたというプロセスを示しています。頭の中から湧いてくる言葉をそのまま書いているので、おそらく後から自分でも見返してみても分かりにくい表現になりましたが、ありとあらゆることにはその理由があって、それは受け取り手によっても見え方が異なってくるのではないか、ということです。

生きていて不満に思うこと、不快に感じることはたくさんあると思います。「神は乗り越えられる試練しか与えない」というフレーズが流行りましたが、聖書のコリント人への手紙第一 10章13節の「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。」という言葉からきているのではないかと思います。あれ、なんとなくニュアンスが違いますね。別に神は試練を与える存在ではないわけで、人が勝手に物事を試練と感じていて、耐えられないものにあわせることはないしないよ、という感じに私には見えます。そもそも聖書の和訳で言うところの「試練」は英訳ではtemptationとなるので、キリスト教での罪への誘惑の意味になります。だから不満や不快、困難といった試練に対してそれらが乗り換えられるべきものだという考えではないわけです。つまるところ、流行りのフレーズは困難を乗り越えようとする人に「そのままやっても大丈夫だよ」と勇気を与えこそすれ、乗り越えられそうにないものに直面する人に「乗り越えられないものなんてないのだから何故行動しないのか」と詰問するものではないのです。

結局言葉なるものは使いようですし、物事は捉えようです。世界は認知により各者各様の形をしています。せっかく生きているのだから楽しく生きていたいですよね。別に嫌なことは全部やめてしまって、無理矢理に何かをすることはないのです。ただ、それがやはり必要なことなのであれば、どのように楽しめるかを考えて取り組むべきです。人間は進化もすれば退化もする生き物ですから、楽しめることを増やしていかないと全てつまらなく思えてしまうかもしれませんから。

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