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気に入らない考えへの対処の仕方

筋道を通して理路整然と物事を話したり、書き下すことが息を吸うようにできればどれだけ楽であったかと思うが、日曜の朝からほぼ人が見ないドキュメントに対して肩肘張って取り組むのもバカバカしいので、思ったまま「お気持ち」を連ねていくことにする。そもそも理路整然とした文章にしろ、行政が出す文書にしろ、奥にはなんらかの意図というか目的を持っていて、ひいてはこれらも誰かの「お気持ち」と言っても差し支えない。〇〇であると伝えたいな、〇〇であると都合がいいな、と誰かが考えてそれぞれ拵えたものだと思う。でなければわざわざ人間はものを書かないのである。この文章は画面の向こうのあなたに対して「気に入らない考えへの対処の仕方」について私なりの考えを伝えたくて書いているものである。同様にかつて、司法とは血の通ったものでなければならないと盛んに唱えられて、裁判員制度が導入されるなどの司法制度改革がなされたが、司法についてはさておき、司法を構成する法律とは血そのものであり、成立の背景を見るとしっかり血の通ったものであるように思う。まあ、判決に長い時間がかかったりすることに人間味があるのかというと、それもそれであるような気がするが、一旦置いておく。

人間生きていれば自らの考えと異なるものと遭遇することはままある。時には道義的におかしいと非難したくなるものもある。電話で家族にこういうことがあってさ、と愚痴ることもあるし、SNSにこれはおかしいと思う、と書くこともある。これは自戒でもあるのだが、その言葉が出てくる前に相手の考えについてより深く考えることが大切ではないだろうか。言い方を変えると、自らの考えと異なるものと遭遇したときにはまず異なる考えの意図や目的、背景にある事情を考えるべきである。人間が生き物としてこの世に生を受けている以上、主観からは逃れられない存在であり、すべての人間はその表裏関わらずどこかにそれぞれの事情を抱えながら生きている。それを踏まえて自らとは異なる考えについて深く迫ることが肝心である。その上で受け入れるなりレスバするなり好きにすればいいと思うが、ひとまず何故そうなるのか理解する段階を踏まずに次の受容や糾弾に移行することは非常に危険であると言える。言葉尻を掴んで取り扱うことは相手の意図したものでない以上相手の唱えたものと同じではなく、話に収拾がつかない。

しばらく仕事だなんだとインターネットから目を離しており、昨日久しぶりにタイムラインを眺めていればキリンの不買運動が起きていた。広告に起用したどこかの学者が高齢者は集団自決すれば良いと発言したものに対する抗議ということのようだ。高齢化率が高くなり歳入は増えない一方社会福祉のための歳出が増えている状況で高齢者の数を減らす必要があると考えた上での発言だろうと推察される。そもそも老人は集団自決しなくても後先そこまで長くはないものだ。この学者が発言したときに「わざわざ集団自決させなくとももうすぐ勝手に死ぬでしょ」と私なら悪態をついたかもしれない。しかしながらいかなる理由であれ人を殺していいとはならない。社会にとって不要な存在だと言って排除することは人間が豊かに生きていくための多様性を確保する観点でいうと悪手であるし、今の私たちが生きている社会を作ってきた功労者たる彼らを蔑ろにすることは全体のモチベーションを下げることになる。年をとってからの生活を楽をしたい気持ちで今を一生懸命に生きる人もたくさんいるに違いないと思う。そのほか様々な視点で見ても、高齢者を集団自決させてよいとは到底言えないが、この学者にも発言に至ったなんらかの考えがあるはずだ。

メディアで目立つ発言や記事は人の耳目を集めたいという意図が際立ちすぎて、それだけが独り歩きすることがよくある。そしてそれらは注目させるために強い言葉が使われる。不確定な事象を言い切ったり、過激な言い方がなされるということだ。人に見てもらい受け入れてもらうためには素直に受け入れやすい言い方をすることもできるが、例に挙げたように人々に対して牙を向けるような、人を傷つけることも効果的であると言わざるを得ない。そして残念ながらその方が目立つのでただ注目させるだけならば目的は達せられてしまうのだ。そういうわけで世の中に氾濫する情報には私たちを知らず知らずのうちに傷つけるものが溢れている。自分を大切に生きるためには、どういった情報なのだと理解して向き合う姿勢が求められる。

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