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海の向こうで戦争が起きてる

対岸の火事という語彙があるが、日本にいる僕らが見ている戦争は概ね対岸の火事であり、タイトルにあるフレーズもあらゆる小説でよく見かけるようになったのは湾岸戦争なりユーゴスラビア内戦の頃で、おおよそ90年代のことのように見える。21世紀になってもう20年と少しが経ったが、あらゆる紛争の種は当時と変わることなく各地で燻り続けており、時間の経過とともに新たな勢力の勃興と既存体制の崩壊もあって、様相は複雑になっているといえ、ここ数年で目立ったのはロシアによるウクライナ侵攻やユダヤ人とムスリムの対立なのだが、日本にいる僕らからすると遠く向こうで何かが起きている程度で、多少の物品が調達困難になることはあれど、国内に閉じた暮らしをする限りほとんど影響はないように感じる。

人と人とが暮らしているとやはり合う合わないの争いがあり、長年よろしくやっている間柄に見えたとしても内実は当事者同士で泥々の口論になっていたりすることもある。Twitterを眺めていると、とあるグループYouTuberの周辺でそう言ったものがあって、あれだこれだと騒いでいる様子が延々と画面をジャックしていた日があった。無関係の人間が知るべきことは他に山ほどありそうなものだが、これほどまでに見せつけられるとなんらかの感想は抱かずにはいられないのではないかと思うし、彼らの影響力の大きさを考えずにはいられない。あくまで私の目線から見えるものなので、一般的にそうかというと必ずし同じではないだろうが。

人は向けられる目線に対して応えて生きていく生き物だと思うし、無自覚に他人に対してなんらかの言動を促しているといえる。それは我々が共同体を必要とせざるを得ない特性を持っているからで、人間という単語が人との間と書くことからも見てとれる。目線を感じられるか、応えられるからそれぞれ個体差があるので、感覚の違いで一悶着するのは往々にしてあることで、日々何かに不満を抱き、そして日々なんらかの形で解消する営みを延々と続けているように思う。

それは無機物な法人としても同様であり、法人営業という仕事はそのコミュニケーションを代わりにやることのように思う。何かの手違いで誤解を招いたり、迷惑をかけてしまうようなことは沢山あるのだが、その原因はなんだったか反省して考えると、個人間で起こるトラブルと正直さほど差はないと思う。つまるところ、それぞれの課題の解消にあたっては当事者同士の会話が必要不可欠であり、そのやりとりを当事者の誰かが起こすことが求められる。どれもこれも少し勇気のいることだと思うが、それが全てを変えていくのだと思われる。

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