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sushi食べたい

すし、鮨、寿司、₍₍⁽⁽(ી( ˃ω˂)ʃ)₎₎⁾⁾🍣ᔆᵘᙚᑋⁱ #Sushi_is_expected_to_make_the_world_peaceful、スシ、sushi…

生まれ育ちが本邦でない方々において、本邦における最も著名な飯といえばsushiに他ならないだろう。そもそも生魚も米飯も世界の中で日常的に食するのは限られた地域のようで、もしもこの世界が創造神によって作られたとするなら、たとえその存在を信仰できないにしてもこの生態系と文化のもとに私を置いてくれたことに感謝せざるを得ない。

少なくとも私において、自分の懐が許す限り気軽に食べられるほど、sushiは身近なところにある。歩いて5分もすれば幹線道路沿いのくら寿司でまわるsushiにたどり着くことができる。思いの丈食ったとしてもそもそもが1皿130円程度なので2、3,000円くらいで収まる。もう少し歩いたところにあるはま寿司は平日のランチで一皿単価が下がることもあり、そうなると日常使いするには十分手頃といえる。ただ、せっかく外食するならもっといいところで羽振り良くいきたい気持ちもある。知人が銀座でやっている店はsushiと一品料理が交互に出てくるコースになっていて、その時々の旬を拵えてくれるのでとても面白いが、一食でだいたい月の食費の半額くらいにはなる。たまにそういう贅沢をするものとしてもsushiは存在する。

ここまで概ね握り寿司についてsushiと書いてきたが、生まれ育ちが関西の人間にとっての普段のsushiとはちらし寿司や巻き寿司、バッテラのような押し寿司、そしていなり寿司ではないだろうか。もちろん江戸前の握り寿司文化がないわけではなく、関西、とりわけ私が生まれ育った近畿二府四県においても日本全国の他の地域と同様にロードサイドには回転寿司屋が並ぶし、繁華街などのしかるべき場所には高級店も存在する。ただ、家での食事で握り寿司が出るのはハレの日に出前をとるか、悪くて見切り品の半額シールがついたスーパーの惣菜売り場のものだ。食事として食べ、また、自分でも作るのはあくまで握り寿司ではない印象が強く、いわゆる「おふくろの味」には握り寿司はなり得ず、私は少しよそよそしさをもって接さざるを得ない。

とりわけ印象の強いものは幼い頃に祝いの場に出されていたのはちらし寿司であり、桃の節句には学校給食でも供されていた記憶がうっすらとある。子供の味覚だから仕方ないのかもしれないが、なんとなく酢のしっかり効いたご飯が好きではなかった。今となっては江戸前の握り寿司を食べに行って、赤酢の酢飯が出ようものなら「本格的だな」とテンションが上がるというのに。

さてさて今日は金曜日であり、クリスマスも間近に迫った12月が幕を開けた。少し気が早いかもしれないが、年の瀬の忙しなさが続く1週間を駆け抜けてきた達成感で普段より気持ちが上を向いている。スーパーの惣菜売り場に目を向ければローストビーフやフライドチキンが我こそはこの時期の主役ぞ、とデカい顔をしている。また、外は冬至に向けてどんどん日照時間が短くなってゆき、風も冷たさを増している。心の底から真に温まるためには鍋も美味しい頃合いではないだろうか。秋の収穫シーズン後ということもあり、さまざまな野菜も比較的安価に手に入る季節でもある。

でもやっぱりsushi食べたい。

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