【大学受験生向け】国語とは何か

こんばんは、まごっとです。

友人のSukesan1984とやっているPodcastで、Sukesanから「それ早く聞きたかった」と言われたことがあります。
それは大学受験における国語についてなのですが、今回はその国語について話します。

高校まで勉強する「国語」というのはなかなか謎な教科だと思います。
どんな試験でも国語はあるけど、数学のようにテクニックもはっきりしてないし、答えを聞いてもなんかはっきりしない、ということは誰しも感じたことがあるでしょう。
一応私が述べることの説得力をあげるために伝えると
私は一般的には大学受験に成功したほうで、長年西洋哲学を学んできました。
その中で「受験の国語ってなんぞや」という問いに対してある程度まとまった答えが自分の中で出ています。

文部科学省によると、国語はこのような意義があるらしいです。

読むとたしかにその通りだなあと思うのですが、私なりのシンプルな考えを述べます。

国語は
言語を通じたコミュニケーション能力を養うもの
だと思います。
我々が他者と会話するとき、基本的に言語を挟みます。
言語を挟まないコミュニケーションも多々ありますが、完全に明瞭なコミュニケーションは言語を通じて行われます。
ここの能力が欠如していると、発信も受信もできません。
すごい極端に言うと
A「今日はいい天気だなあ。暑いけど焼肉食べに行かない?」
B「カピバラ」

というコミュニケーションになってしまいます。
発信する方に国語能力がないと
B「おそば(一緒にゲームがしたい)」
A「え?そば食べに行きたいの?」
B「だjkfじゃいおえじあおfじぇいおあwfj!!!!」

ということが起きてしまいます。
すんごい極端に書いてますが、程度が違うだけで国語能力の不足によりこういうことは日常で多々起きています。

また、大学受験においては
言語を通じて、論理的な主張を適切に解釈し、その解釈を適切に表現すること
が非常に重要で問われます。
論説文以外に小説もありますが、比重としては論説文で問われることが多いので、論理性が重視されます。
もっと正確に言うと
言語を通じて、問題作成者が是とする論説文の解釈を適切に自分も解釈し、その解釈を適切に表現すること
になります。

ここで大事なのは
あなたの意見は聞いていない
ということです。
また、極端な例を出します。
論説文の中で
「犬は猫よりかわいい。」
と書かれていたとします。
質問は「犬と猫、どっちがかわいいですか?」だったとします。
あなたは猫派だったとしましょう。
ここで「猫がかわいい」と答えてはいけません。
「犬がかわいい」が正解です。
持論を出した時点で誤りです。
ちなみにこれがSukesanに「受験生のときに聞きたかった」と言ってもらえたことでした。

また、もう1つ極端な例を出しましょう。
論説文の中で
「犬は地球外生命体である。ゆえに、人類は毎日寿司を食べなければならない。」
と書かれていたとしましょう。
ここであなたは
「は?!この文章意味不明じゃね?!」
と思います。
が、ここで持論を出してはいけません。
問が「毎日人類が食べなければならないものは?」というものでした。
選択肢が
①焼き肉 ②スシロー ③ハンバーガー ④りんご
だったとします。
ここであなたは思います。
「は?!?!寿司って書いてあるけどスシローとは一言も言ってなくね?!」
しかし、ここで持論を出してはいけません。
この問題作成者は、寿司=スシローと考えたのです。
よって、最も近いスシローを選ぶのが正解になります。

いくつか面白いエピソードがあります。
私は高校生のときに山ほど模試を受けていたのですが、あるとき同じ論説文が2回別の模試で連続して出てきたことがありました。
しかも、問われている箇所・内容が全く同じだったのです。
最初に解いたほうは選択式、次は記述式でした。
私は選択式の答えを覚えていたので、記述式のほうでほぼ全く同じものを書きました。
そしたら、△がつきました。
結局、問題の作成者が是とするものを書かなければ◯はつきません。

また、これはSNSで見た話なので真偽は不明ですが
ある小説家のお子さんが、親の小説を題材にした問題を解いたらしいです。
「ここで筆者の気持ちはどうだったでしょう?」という問題が出たそうで
お子さんは親に聞きました。
「どういう気持ちだったの?」
「締切に追われて大変だったよ」
そこで、お子さんは「締切に追われて大変だった」と書いたところバツだったのです。
結局、問題の作成者が是とするものを書かなければ◯はつきません。

結局のところ、国語という問題はこのようなふわふわした中で行われており、数学のような意見を挟む余地のない論理的厳密性の中では行われていません。
しかし、この中で行われているものだと把握しておけば、試験を解くという目的のおいてうまく立ち回れると思います。

しかしながら、前述のようなトンデモの中で行われている論説文は少なく
ある程度の正当な論理性の中で展開されていることが多いです。
その正当な論理性を養えば、より効率的に正しい解釈をすることができます。
その正当な論理性こそが、学問の真髄であり、世界の共通パラダイムです。

また、例を出します。これはよくある例ですが
「今日雨が降った。傘をさした。しかし、足は濡れた。」
という文章があったとします。
問は「足が濡れたのはなぜですか?」だとします。
正当な論理的解釈能力がないと
「傘をさしたから」
と答えてしまいますが、もちろんこれは間違いです。
答えは「傘をさしたが歩いてる中で足だけは濡れた」になります。

このような学問的論理性を基盤とする思考パラダイムがないと、日々の会話はすれ違います。
パラダイムが違うというのは、キリスト教徒と仏教徒が人生について語るようなものです。
両者では会話が全く噛み合いません。
この学問的論理性を基盤とする思考パラダイムというのは、人間が社会で生きていくための必須能力です。
これがないと、極端な例では日々の出来事はすべて私だけに向けられた神の天啓になってしまいます。
これを養うのが、国語の意義の1つでもあり、また、これが国語の問題を効率的に解くための必須能力でもあります。

大学とは、今まで築き上げられた人類の学問の叡智に、また1つ新しい知を一歩築き上げる場所です。
そのためには、正しい国語能力がなければ学問の土俵には立てません。
ゆえに、大学は国語という教科を通じて「あなたはうちの大学で学問できるの?」という視点で「ふるい」に受験生をかけているのです。

このように、文字の羅列から論説文における論理展開・論理関係を適切に把握すること、そして問題の作成者の気持ちを察することができれば大学受験としての国語力は上がると思います。


最後のSukesanの話題の梅干しnoteを貼ります。
ぜひご一読ください。


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