白い残像

 家に帰り、電気をつけると、パリンと音がした。電球が切れた。取り替えようと、新しい電球と脚立を小脇に、古いものを外しにかかる。フィラメントが切れて、役目を終えた電球。つるんとした真っ白な表面には、少し埃がかっている。きれいだな、そう思った。

「おじいちゃんがもう危ないから、病院行くよ」
 めずらしく父に起こされたと思ったら、長く入院していた祖父が危篤だという。とうとう来たか、と慌てるでもなく、支度をして父の車に乗って、病院に向かった。
 2004年の12月30日。この頃の自分は、中学に入って初めての冬休みを迎えていた。去年までは休みとなると塾に通いっきりだったから、数年ぶりの長期休みらしい休みを味わい、すっかりだらけていた。

 我が家はほんの少しだけ、特殊な家庭環境にあった。母方の祖母は歯科医、祖父は助手兼薬剤師として、個人の歯科医院を営んでいた。そしてその娘である母と、歯科大で出会った父の二人がそれを継いだ。この個人院、つまり母の実家は車で四十分ほどのところにある。幼少の頃は、日中のほとんどをここで過ごした。小学校に上がると、最寄りの小学校ではなく、両親が通勤する車に乗って実家近くの小学校に通っていた。学校が終わると、当然この実家に一度帰る。そこでまた日中を過ごし、両親の仕事が終わったころに、本来の家に車で戻る、という生活だった。
 この日中、子供たちの面倒を見てくれていたのが祖父だった。幼稚園なり小学校なりから帰宅すると、祖父の部屋で本を読んだり、テレビを見たりしながら過ごすのが日常だった。おやつをもらって、お昼寝をして、両親を待った。冬になればコタツでお昼寝をしてしまい、汗だくになった。土日は祖父が昼食を用意してくれる。特に多かったのは、そばだ。子どもが消費するには多過ぎる量でゆでるものだから、終わりの方には伸び切っていたことをよく覚えている。祖父と買い物に出ると、一人暮らしの老人の量でない食料を買いこんでいたのが長く疑問だったが、孫のためと思っていたのだろう。こうして、幼少の自分の身体は、半分くらい祖父の料理で育ったといっても過言ではない。

 姉が中学生に、私が高学年の中学受験生になると、祖父と会う時間ががくんと減った。帰宅しておやつを食べたらすぐに塾に向かい、塾が終われば両親に合流、そのまま本来の家に帰った。祖父と顔を合わせるのは一瞬のことで、タイミングによっては全く合わない日もあった。
祖父が体調を崩したのもこの頃だった。役目を終えたと思ったのかもしれない。何度か入退院を繰り返し、この一年でとうとう長期に入った。ついに家に戻ることはなかった。

 父の車の中で、ウォークマンで音楽を聴いた。Gacktの「Secret Garden」という曲を選ぶ。「僕は体中に巡るプラグを外し 自分の脚でもう一度だけ この空を見た」この歌詞が祖父と重なった。今はお騒がせタレントのイメージがついてしまったが、この曲は今でもよく聴いている。

 入院中の祖父には何度か会った。プラグだらけな姿に驚いたが、秋の終わりくらいまでは意識もはっきりしていて、話すこともできた。「冬休みはまだなの」「うん、まだだよ」そんな些細なことだった。途中、看護師が「お小水を片しますね」と、やってきた。すると祖父は慌てたように「あっちゃんはあっちに行って」と話した。弱り切った祖父の姿の中でも、それは特に強く記憶に残っている。
 宮沢賢治の「無声慟哭」という詩がある。妹・トシの死を謳ったものといえば「永訣の朝」が有名だが、「無声慟哭」は、病床のトシとのやりとりが、より痛切に書かれている。(おら おかないふうしてらべ)と、トシはこぼす。死へと近づくたびに、衰えていく我が身に「あきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら」「またわたくしのどんなちひさな表情も けつして見遁さないやうにしながら おまへはけなげに母に訊く」とある。これを読むと、詩の上にある宮沢トシという存在の、生身を感じる。死とともに語られる彼女の像が、生きたいともがき動いて、目の前に現れてくる。喜怒哀楽というものに、じんわりと血が通っていて、生命が震えて肉体の内で反響する。生の淵から溢れ出る感情が、こちらに滲んでくる。
 祖父の焦燥も、これに近しいものだったように思う。これまで親のように世話をしていた孫の前で、世話をされることへの抵抗感、情けなさ、恥じらい。人間はどれだけ弱りきっても、死を前にしても、感情があって、尊厳がある。この瞬間の祖父は、身をもってして、私にそれを教えてくれたのだった。

 この出来事からまたしばらく。最後に会ったときは、母を妻だと、孫を娘だと思って話すことがあった。祖母は母が二十歳のときに亡くなっている。いつだったか自分が下を向いて物を書いている時に、祖父に「おばあちゃんにそっくりでびっくりしたよ」と声をかけられたことがある。

 病院に着くと、祖父は眠っていた。プラグにつながれていた身体は、さらにプラグだらけだった。母は仕事を切り上げて、向かっている最中だった。高校生になった姉は、郵便局のアルバイトに出ていて、それを切り上げてくるという。父と自分は、近くのレストランで朝ごはんなのか昼ごはんなのか、よくわからないものを食べることにした。

 向かいに座る父が、気落ちしているのが伝わってくる。祖父と父は仲が良くない。しかし、二十歳で実父を亡くした父にとって、義理といえど祖父は唯一の父だった。実の父の代わりに、乗り越えるべき相手だったのかもしれない。末娘には如何とも共有しがたい価値観だが、近現代の男性がもつ、家父長制度における葛藤について考えたとき、父のこの姿を連想する。
 祖父は当時にはめずらしい「主夫」であった。祖母が歯科医として個人院を回す中、それをサポートし、家事も祖父がこなした。学生時代の娘の弁当作りも、祖父が担っていたという。現代ですらめずらしい例だが、大正時代生まれの男性にとって、どんな心境だったのか。祖父は娘に「自分がお弁当を作っていることは、友達に言わないでくれ」と秘密にしていた、と聞いた。

 母と姉が合流し、祖父の妹の大叔母もやってきた。全員がきれいにそろい、一時間ほどした頃と思う。医師がやってきて、看護師とやりとりをしながら、祖父の容態を診ていた。そして母と少し話した後、「声をかけてあげてください」と、こちらに切り出した。おそらく延命できたのかもしれないが、母が拒否していたのだろう。
 誰から切り出したかは覚えていない。自分は「おじいちゃん、篤生だよ」と、声を出したのを覚えている。ドラマのワンシーンのような気恥ずかしさと同時に、初めて涙が出た。中学一年生の小娘なりに、冷静なフリをしていたのかもしれない。

 家族に看取られ、おそらく声も聞いて。本人にとってはどうかわからないが、おそらく完璧な環境の中、祖父はプラグだらけの身体を離れていった。
 
 臨終に際した人に、最後まで届くのは声らしい。呼びかけというのは最期の伝達手段なのだ。とはいっても、いざあの場になると、取りこぼしが出てくるものだ。幼い自分が、幼稚園のお迎えが母ではなく祖父だったことに謎の癇癪を起こしたことが一度あり、申し訳なかったなぁと今でも悔いの一つになっている。
 また、祖父は文学好きだった。芥川龍之介、夏目漱石、森鷗外と、如何にも大正生まれの文学青年といったラインナップの全集を抱えていた。いざ文学の話なんてできたら、当時の貴重な話も聞けたかもしれない。
 代わりになるものでもないが、これらの全集は自分が譲り受けた。生きている間に読み終わるのか自信がないが、少しずつ読み進めている。うち、芥川全集は第一巻だけがない。「祖父が持って行ってしまったのかもしれない、奇しくも第一巻の巻頭にあるのは『老年』なんてタイトルだし」なんて思って別の本で読んでみたら、とんでもない内容だった。祖父の部屋を探せばあるだろうと、内心で手のひらを返しておく。

 反面、人間は故人について、その声から忘れてゆくと聞く。幸い、祖父の声はまだ覚えている。「あっちゃん、おそば食べるかい」と脳内で再生すれば、一緒にざるそばが浮かんでくる。今ならすんなり食べきれるだろうか。 
それでももう、祖父はいない。冬になればコタツに入って本を読んでいた祖父はもう、いない。

 新しい電球に入れ替えると、部屋はぱっと明るくなった。真新しくなった光は、一層まぶしく感じる。脚立を降りたら、コタツに入って本を読もう。
手元に残った古い電球をもう一度見る。やっぱりきれいだな。使い古した電球の白さは、美しい。

END

9月の講座用に書いたエッセイです。
受講開始からちょうど一年くらいなので、書き溜めている作品
はいくつかありますが、今回のは自己紹介的にもちょうどいい
と思って初投稿にしました。

中学二年生のときにエッセイを書く授業があって、
今回はそれを叩き台にしています。
さすがに当時のデータは残っていないのですが、
おおまかな流れと、最初と最後の電球のくだり、
Secret Gardenのくだりは当時も書いた記憶があります。
講座内で「アーティスト名は出さない方がいいのではないか」
というご指摘もいただいたのですが、
とりあえず今回はこのままにしてみました。

なかなかくどい自分語りに仕上がったと自負していたのですが、
軒並み「お前の感情がもっと書かれていてほしかった」
と真逆なことを参加者の方々に指摘されてショッキングでした
(自作を客観視できていないんだなぁ…)
先生からは「一種のストイシズムになっていていいのでは。
あんまり気にしないでもいい」と。
エッセイとして意識しすぎず、短編私小説として切り離した方
がいいかも、とコメントいただきました。
私自身、エモーショナルな文体が得意ではない自覚があるので、
今後もこの方向性でやっていこうと思います。

そして祖父について「素敵な人だったんだね」とも言って
もらえてうれしかったです。
生育環境に左右される度合いは人それぞれですが、
自分の価値観、とりわけジェンダー観は、
この祖父に育てられたのにかなり大きいと思っています。

元は「電球の白さ」という事実ありのままみたいなタイトル
だったんですが、だいぶツッコミを受けたので変えました。
タイトル付け、難しい…。

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