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続くということ
数ある小説、数ある映画のどれにも必ず始まりと終わりがあり、起承転結が存在する。
そのどれにもエンディングがあり、物語としての結論が描かれている。
僕達が感動したり、憧れを抱くのも物語の主人公達にとってのエンディングがあるからだ。
それを見て、あるいは読んで、感動し、その物語に夢を見るのも少なくは無いだろう。
しかし、小説や映画ではエンディングで終わっているからこそ、物語たり得るのであり、美しいのだ。
その物語に憧れ、夢を見ることーーはたまた、そのようにありたいと願うことーーは幻想であり、砂上の楼閣である。
それは僕達が生きているからであり、始まりこそあれ、理想とする終わりなど有り得ないからだ。
小説や映画では結末こそあれど、そこで終わるのではなく、現実には物語が続くのだ。
戦時の日本兵が忠誠のために自ら敵機に突っ込むのも、家臣が自身の忠義のために腹を切るのも、理想を求めるからだ。
しかし、それは虚しい美しさでしかない。
簡単には終わらないのだ。
現実では家族や友人が生き、世界は続くのだ。
そこに終わりなどなく、何にも替えがたい世界があるのだ。
たとえ、目標のために努力し結果を残したとしても、自分や周囲の生活は続き、また世界は回り出すのだ。
坂口安吾の堕落論に以下のようなことが書かれている。
特攻隊の勇士はただの幻影であるに過ぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないか。そして或いは天皇をもただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。
僕達はエンディングを目指すべきではない。人間たることを目指すべきなのだ。
人間らしく、泥臭く、堕ちては這い上がり堕ちては這い上がりを繰り返してこそ、人間になれるのだ。
理想の終わりなど、この世に存在しない。終わるまで足掻いて足掻いて、子供のように駄々をこねることこそが唯一人間になれるのだ。
壁を乗り越えたら、また壁は立ちはだかる。それならば、それをまた乗り越えればいい。自分の思うように乗り越えればいい。その乗り越え方に理想はない。人間らしく、醜く乗り越えればいい。
ただ一つ理想とするならば、その瞬間瞬間を刹那的に生きればいい。
それが最も人間らしく、永遠に続く世界の第一歩だと僕は思う。