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コトバ────liveness

『言葉化』されること'で'、事実性や現前[生々しさ]にひれ伏し、頽〔クズオ〕れてしまうヒトと、『言葉化』すること'が'、しばしば'離人症的'な感覚を呼び起こし、fake感[乖離]に苛〔サイナ〕まれるヒトに、二項分布しているよう感覚する。もしくは、'ひとりのヒト'の内側でも、体調や年齢周期によって、『言葉』に対す、'共感や違和'のサイクルを、往復循環しているのではないか。そんなことを予想する。

ひとつの作品を、ひとつの作品の内側だけで語るのは困難で、作品を横断的に、水平方向に展開するのは、この'note'全体を貫くコンセプトになっている。年代問わず、作品内に通底する共時性に呼応し、可能な限り横一面に拡がるよう画角をつけている。metaphorは、作品を内側から体験するものに、一閃を与える'銀色の翼'©芥川龍之介となり、偏頭痛前の閃輝性暗点のように-誰か命ずるまま-鈍く輝く。見つけるより、'見つかる'もので、わかるより、'わかってしまう'もの、だろう。

'プラグマ'の派生にあたる"プログラム"

『メイドインアビス©つくしあきひと』の'主人公格の女の子'は、穴に潜るのは-冒険者として生まれついた-'使命'である、という。そうして街に開いている大穴[Abyss]に、'人を模したモノ'と、ともに潜っていく。自らも来歴を知らぬ、この'人を模したモノ'との、成り行きに任せた出会いは、互いの命を賭して進む-冒険を重ねる-うちに、'かつてからそうであった'かのように、気が付けば必然性を帯びている。やがて、彼女-主人公格の女の子-は、降りたった束の間の休息地で、自らがすでに、'死の宣告'をとっくに過ぎている-'生きているのに死んでいる'-存在であることを知る。

この"死の宣告"を諷するallegory[寓意]は、一見すると、それと'似ているかのよう'にもみえる、『美少女戦士セーラームーンS©武内直子』の"タリスマン"や、『魔法少女まどか☆マギカ©Magica Quartet』における"キュゥべえとの契約"とは、違った質感を漂わせている。『美少セS(略)』や『まどマギ(略)』において挿入される、practicalでpop'nな『'魂/躯'の見える化システム』は、どちらかというと'今生'の生を賦活し、今一度動機付けていく-再起動する-ための、いわば"こんなの絶対おかしいよcv.悠木碧"と言って、邁進していくための'ネオ・プラグマティズム'(※)のススメであった。

※[Neo-pragmatism:"理性は感情の奴隷である"≒デューイ的プラグマティズムの再帰的'リブート']

だが『アビス(略)』で明かされる、'死の宣告'の寓する先には、'光'と呼びうる隙間がまるでない。彼女-主人公格の女の子-を産んだ母親は、'死産'に等しいその赤子に、タマシイらしきものを吹き込んでいく。その引き換えに、計り知れない負荷を背負いながら。そうして母は、偶発的か自発的か、わからぬままに消息を絶つ。どうにか確からしいのは、彼女-主人公格の女の子-は、生まれついた時からすでに、生きながらにして死んでいる。そして産んだ母-英雄譚に崇められる-の軌跡を、追いかけるかのようにして、彼女-主人公格の女の子-もまた'穴'に潜っていく。'穴'の中が、まるで隔絶された世界であることを、どこかに知りつつも。

'information'の前途、'intelligence'の隘路

人は、眼前のテクストと、場の雰囲気であるコンテクストが、違〔タガ〕うことの'整合性'を取り繕おうとして、それがアイロニズム[当て擦り]であることに、気付く。"押すなよ!"を連打していく、あの感じだ。

『美少セS(略)』や『まどマギ(略)』の、『'魂/躯'の見える化システム』も、'コレ'[諧謔]にあたる。死を意識し、疑似的に体験-先取りーすることで、いわば、命の限りを'砂時計化'する-少し死ぬ-ことで、生をより良いものにしていく、そんな'ライフハック'toolにあたる。曰く'ευ ζην'。近年大人気のタイムリープや、異世界旅立ちものの大半も、やはりこの『死を意識し、疑似的に'体験'することで、生をより良いものにする』に後押され、作品内駆動力を得ている。現実界で近しいものでは、各種、宗教に埋め込まれる、'回心'の儀式[re-born,re-birth:悟り,洗礼]や、部族のしきたり等にみる、成人階級への'通過儀礼'[ex.'bungee-jump']に相当する。だが、『アビス(略)』の'主人公格の女の子'は違う。"死"を経由したその先にも-なにも変わらない-閉塞と抑圧しかない。テクストレベル、コンテクストレベル、そのどちらもが'閉じている'のだ。生きながらにして死んでいる。

わたしは当初、この感覚が何を意味するのかわからなかった。作者の'特殊性癖'として、片付けている小考も見た。今思えば、フィットし過ぎて着ているのを忘れるている-自明性に埋没する-そんな感じだった。'アレ'な作品として注目を集め、言及される機会は多いものの、何ひとつピンと来るものは無かった。言語化出来ないままずっと、'abyss'の連続性のただ中に漂っている。わからない、のでなく、わかりすぎていた。'生きながらにして死んでいる'は、死んだように生きている、ではない。生きているのだ、感覚としては。'身体無き'生き霊が近いのかも知れない。あり得べき身体性に着地できず-疲労に逃げられず-空回りしている。周囲はそれを、どこか'閉じている'と感覚する。

メタファーは訪れるもの

だが、ある作品をきっかけにして、『メイドインアビス』とは何なのか。この'全て閉じている'感覚とは、何を意味するのか。'銀色の翼'が閃輝した気がした。同時に『アビス(略)』の'主人公格の女の子'が、バディを組む相手が、'人を模したモノ'である理由もわかったような気がする。これは、つまりは深淵[abyss]に'閉じている'のであり、そして、'綴じている'でもあるのだ。不謹慎な例えで申し訳ないが、深刻な病を経験した-している-闘病記録を、書籍やインタビュー等で拝見する折に、或いは、疎遠にある親戚筋の見舞いの際にみる、どこか'晴れやかでツルンとした顔付き'の、その向こう側に、実のところは全くアクセス出来ていない、と感じる、あの隔絶。

音楽業界に'Plastic voice'の謂がある。"クレージーケンバンドの横山剣"を形容する際などに用いられる。これは蔑称というわけではないので、引用にご容赦いただきたい。つまりは、'感動'みたいなところを丁寧に回避し、跳ね返してくる。クレージーケンバンドを聴いて、泣きたがっている人はあまりいない。多弁である割に、何人も受け付けていない。ボットやナビダイヤルと対峙しているような直截な、あの印象。

『美少セS(略)』や『まどマギ(略)』には、オトナ[≒魔女化したかつての魔法少女]に対する、'天窓を開け放っていく'という自意識が、つぶさに刻印されていた。『小さな娘が思ったこと©茨木のり子』へのhommage[奏上]を斯様に読み込んだりした。だが『アビス(略)』は、いわゆる"毒親"もの、とは違う。'母親'を足場にする際にも、誤読を避けるための目配せが、細部まで行き届いている。線を挟む同位相にあたる、'ネグレクト'の告発でもない。むしろ娘の方が積極的に閉じに行っている。世界を拒絶することで、世界から隔絶されていく。つまりは心でなく、もっと即物的で身体寄りの話。

この話は'dis-communication'ではなく、身体性に即する'dis-order'の地平にある。孤独という言葉では辿り着けない-隔離された-領域を示唆するものと、感覚する。不適切な使用による拡張-ラベリングの横行'finger-point'誤読の誘発-を避けるため、専門的な用語の使用は控える。だが、心因性-ココロの理解-には帰属しない、或いは、"コミュニケーション能力"といった'magic-word'[呪文]に還元されない領域が、この世界には確かにあり、それを内側から体験するもののウチ、いつの間にか'emulsion'していくものがいる。孤独に纏わるチェックシートを、各々で塗りつぶしている。そんな光景が瞼裏に浮かぶ。

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