見出し画像

『ぼく地球』はいつでも最高密度の"おねショタ"だ

(『4月生まれのバイブス』につづく)

日常を"外側から"観察することで、リフレーミングの可能性を模索する。
"百合"を含む、日常を『入れ子』に仮構する"作品群"にもっぱら惹かれるのは、互いに"素潜り"をするような関係性の中で、自然と発生するランダムにどこか希望を見い出しているからだろう。

百合とは結局Sexual以前の関係性であり、いわゆるギャング≡チャム≡ピアでいう"チャム期"に相当する。斉藤環は思春期の大波に耐えうる『前・思春期』のファウンデーション形成の重要さを説いている。逆に言えば、思春期以降には、思春期以前のリソースを使い、出来ることと出来ないことを縒り分けていくしかない。即ち"百合"とは、意味 (≒社会的文脈)で記述されていく、『それ以前』を記述する関係であり、"Sexual以降"の話となるレズビアンにはさほど興味が湧かない(注 : 数多ある関係性のひとつとして別段特別視しない、の意)。

† † †

咲坂伊緒の「アオハライド」を読んで思うのは、「あすなろ白書(©紫門ふみ)」を反復・翻案するトレースだった。氏自身、『成海=なるみ』のネーミングで作中オマージュを捧げている。「あすなろ~」は大学を舞台にしているのに対し、「アオハ~」は高校が舞台になっている。コンテクストレベルの変容が伺える、かどうかはよくわからない。わたしが「あすなろ~」を読んでいたのは中学か高校の時分で、「アオハ~」を読んでいる(いた)ボリュームゾーンは、小学~中学生の子達だろう。要は、社会状況の変容をコンテンツに託し臨むのは"気をつけなければ"ならない。舞台設定にはリアリティ(=作品強度)を担保する、以上の意味はなく、作品に埋め込まれる"思い"に気付くかどうかは、"思い"を経験しているか否かに拠る。物語の利点のひとつは、データベースとして蓄積される記憶の海に、後から"意味解釈"のフレームを当て嵌めるコンテクストフリーなところにあり、「あすなろ~」を通じ「アオハ~」を見ることで、「アオハ~」を通じ「あすなろ~」を見ることで、視座の輻輳性を増し解すことが出来る。

「あすなろ~」における『母毒』の描かれ方は、" 鬼子母神"的表象を擬らえるのに対し、「アオハ~」では"コントロール・フリーク"による過剰な母親愛(≒鬼子母神類型)の線を挟む同位相、ネグレクト的母親像を暗喩する『"贖罪"の埋め込み(="忖度")によるコントロール』の表象となっている。

"翻案"を読み取るのはこの部分で、「あすなろ~」が"加害あり被害"で描かれるのに対し、「アオハ~」では"加害なき被害"、即ち"過剰な忖度"という極めて現代的なモチーフを採用する。更に言えば「あすなろ~成人編」で"母毒の連鎖"と救済、を描くのに対し、「アオハ~」では、世代を跨がない処方箋の提示、つまり別の("真"の)問題系へと物語を導出している。要は『母毒』とは本来、"引き金"なのか"火薬"そのものなのか、という問いだ。結論を言えば、循環構造に回収されるので、『犯人探し』に"感情的手当て"以上の意味はない。要は、周りの環境如何で"ソレ"を『引き金(=暴力の手段化)』のひとつとして相対化することも、『火薬(=暴力の目的化)』としてくすぶり続けることもあり、"終わり無き犯人探し"に実質的な意味はない。畢竟、親が外部であること、即ち『暴力性』を帯びていることは相対化は出来ても、キャンセルすることは出来ない。導入すべきは"制御(=エンジニアリング)" を志向する姿勢であり、アイロニーを内化(反対項を読み込む)する佇まいだが、毒親問題の最大は、本人のみの目線でビルトインされる傾きに、気付くのはほぼ不可能、というところにある(="情報の非対称性"による分割統治)。そして両作品に共通する地平は、どちらも父親の不在=存在の疎外。

内容を抽象的に言えば、"方向喪失"に陥る男の子が、『基準となる女の子』に準拠(=リファレンス)していく話で、ジャンルを区切れば『おねショタ』のコロラリーといえる。咲坂先生のプロダクトに沿って眺めれば、「ストロボ・エッジ」でピアtoピアを、「アオハライド」でバイ×バイのヴァリエーションを、「思い、思われ、ふり、ふられ」でマルチスレッド方式で多様な関係性を、それぞれに描いている。作家自身の成長とともに複雑性を増していく、そんな補助線が引けると思う。

‡ ‡ ‡

本棚の揃えが居住者の内面を顕す、といった短絡は嫌悪している。即ち、作品と、作家自身の実像は切り分けて考える、という前提を踏まえた上で、作品を通し残響する咲坂さん自身の「作家性」みたいなものに言及するなら、『勿体が無い』に尽きるのだろう。メディエーターの口を借りて説教を垂れる(ex手塚治虫『火の鳥』)という振る舞いは限り無く抑制されている。作家の角田光代さんも似たようなことを述懐なさっている。喩えるならそれは『化物語』の"ラスボス"こと「千石撫子」みたいなキャラクターであろうと推察する。いわば、個に信念が宿る、という、もはや"有り得ない"近代的な幻想を打ち捨て、関係性を描写する中で、仮初めの"共通前提"が構築され、最終的に予期せぬ"ゴースト"が宿るという、"当てずっぽうで中庸を説くオジサン"とは真逆の構えを有している。極めて現代的かつ、コンテクストフリーな構えとなっている。

要は、"凛"とした、とか、個の自立云々、という一昔前の、そして"再魔術化"に伴い復古しつつある、女学校の宣伝文句のような、個と集団を対立的(斥力引力図式)に捉える間違った補助線を、いい加減手放す時期に来ているのだろう。自己責任原則の徹底を唱えるなら、同時に完全情報化を実現する必要があり、両立を損なえば、帰結として多様性を失う。フェアネスを欠く制度設計は、偶発性を欠き(=ランダム性がゲームに"意味"を与える)、方向喪失(="意味"を見失う)に陥っていく。いわば、滅んでいることに気付かぬまま、そのままゆっくりと滅んでいく。これは『完全情報化』など原理的に不可能ゆえに、『自己責任』概念などフィクションでしかない、というロジと等価にある。咲坂ワールドに登場する男の子達は、"見てくれだけのハンドバッグ"として描かれない。憂いや匂いを帯びていて、振られて(振って)なお存在感を発揮する。SNSで"脳内お花畑"的クリシエを放つ人間が、結局誰よりも"お花畑"の真っ只中にいるのではないか、と思える瞬間がある。そうした"タフネス気取り"の淋しいマチズモ達は、苛烈なバトルロワイヤルである咲坂ワールドでは生き残れない。

♪ ♪ ♪

ワークアウトの最中、脳内BGMでずっと『君の知らない物語』が流れていた。
『化物語』について書けと、"神の啓示"を受けた(それもある)というより、3日くらい前YouTubeで聴いた"やなぎなぎ"の中毒性にやられていた。アニメ業界には"やなぎなぎ"が歌う作品に外れ無しという、目下更新中の「伝説(≒検証不可能の意)」があり、SupercellのVOCALOID"nagi"として参加する『化物語』は"それ"を決定付けるメルクマールになっている。不一、"終わりの始まり"はよく聞くが、"始まりの終わり"は聞いたことがない。人知れずフェードアウトするか、『~の終わりビジネス』が隆盛なだけで、きっと何ものも"終わる"ことはないのだろう。そして『化物語』にはもうひとり、"メルト♪溶けてしまいそう~"な倍音の持ち主、通称"ラスボス"が存在する。「千石撫子」のC.V.こと、"花澤香菜"だ。

新海誠の"花澤香菜好き"は割と有名な話で、『言の葉の庭』などにその傾向は良く出ている。雨の日に履く裸足のパンプスを男の子の鼻先で脱げるか、というツッコミはさておき、くだんの作品は、宮崎駿の声優"嫌い"(=画の動きの情報量が多い分、声の演技による"情報過剰"を抑制)と対をなすように、花澤香菜の、花澤香菜による、花澤香菜のための映像作品だと思っている。作中カラスがそう言っている。カラスの口は動いていない。言うまでもなく、この作品は『おねショタ』の系譜にある。だがその重心は、"ショタ"が"おね"にリファーすると見せ掛けて、最終的には"おね"が"ショタ"にリファーする順序になっている。新海誠が"ハッピーエンド"に梶を切ったのはこの作品あたりからだが、野暮を承知で言えば、「金魚撩乱(©岡本かの子)」よろしく、主/従の関係など、ましてや"真"にハッピーかどうかなど、アングル次第で如何様にも解釈可能で、メタファーの読替可能性こそ『再定義(=リフレーミング)』を伺う文学的な"狭間"と言える。それはジャズミュージシャンの菊地成好が、アーティストの矜持として"印象派"(光感)を忌避することと同義であり、河内遙は「関根くんの恋」のワンシーンで、"廃墟萌え"の風潮を、退廃ではなく"頽落"として退けている。

简 vs 繁 

不特定の集まる会合で、ひとりシリアルキラーのような目の男がいて、話し掛けると彼は大陸からの留学生だった。私の感じた違和は、『箱庭』を外側から観察する眼差しだった。院生の彼は日本語でメモをとっていて、なぜ"簡体字"を使わないのかという問いに、漢字に埋め込まれる意義をスポイルしてしまうと、少し間延びする日本語で答えた。一見効率的に見える振る舞いが、依拠する足場そのものを崩してしまう、そのようなことを平易に言った。会合後、ビル群に囲まれるスタバのテラスで、彼はグレープジュースを、私はアメリカーノを、各々頼み、飲んだ。年齢的には一回り以上違うツーマンセルだが、それが自明で、奢る奢られるというのは無かった。話してる最中カラスが低く滑空し、隣りの席を囲んでいた家族連れの子供が、驚いて把持する風船を放し、切り取られたグレーの空に赤色がゆっくり浮かび上がっていく。それを見て、"映画みたい"とふたり同時に弛緩した。夜、見通しの利かない路地で、先に誰かいるような気配を感じ、警戒しながら角を曲がると、仄明るいくらいに花が咲いていた。そんなどこにでもあるような、忘れられない出会いだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?