怒る人と怒られる人

なんだろうなあ、って思う。

最近、放課後の過ごし方に新しい選択肢ができた。今まではバイトか遊びの二択だったのに、そこに教習所の選択肢が追加された。したのはわたし自身なんだけれども。そこでの出来不出来についてこの怒る人に左右されてる気がする。

今日は二時限予約していて、一つ目が左右折時のスピードで二つ目が坂道発進の練習だった。
正直なところ、わたしは遊園地のゴーカートで事故を頻発し、父親から運転するなと言われている。母親は楽観的でゴーカートと車は違うから〜と笑う人だが。

一つ目の教習は非常に上手くいった。入校してから今までずっとカーブや左右折時の行き先を見るという行為がわたしは特に苦手である。実は、車のみならず自転車、ましてや徒歩に至るまでわたしは行き先を見ることができない。自分が進む方向の下と正面、せいぜい2メートル以内が限界だ。ここでは、自転車を例にあげるが、自転車においても進む方向の遠く先を見ると良いと言われている。そうすることで、事故に繋がる因子を事前に避けられるようだ。だが、わたしの場合。遠く先を見ることで近くの注意力が散漫になり、ふらつき転び、他人にぶつかる。よってわたしは行き先を見て運転をすることは不可能に近いのだ。
その点を毎回の教習で指摘されるが、わたしにとって教え方がわかりやすい、または雰囲気が怖くない教官は一度の注意で気をつけ、直すことができる。…たまにやらかすけれど。

始まってすぐ、二度目の教官と今日の教官、どちらの練習でもわたしは泣きたくなった。直すためにアドバイスをくれるのは本当にありがたい。だが、彼らは、わたしがミスをした時に、「あぁ〜〜ほらぁ……」と半笑いだったり、「また間違いましたねえ」と貶してくる教官なのだ。今日の教官は特にしんどかった。「どこかで運転を変えないといつまで経ってもこの酷さですよ」「行き先みてないなんて有り得ない」と。書き出してみたら、特に酷いことを言われている訳ではない。だが、50分間乗用車という狭い空間に閉じ込められ、こちらはほとんど慣れていない運転で緊張している環境でその言葉を発されると特に苦しくなる。
わたしのメンタルが弱いのだろうか。もちろんそれもあると思う。だけれども、環境が環境な故に特に心の弱い部分に刺さってしまう。どうしようもない。泣きたくないのに、声が震えてしまうのだ。

考えてみたら、いつもそうだった。
半笑いで指摘された時、みんなできているのにと比較された時、話をちゃんと聞かずに適当に返された時。
わたしはいつも泣きたくなる。わたしという存在が蔑ろにされたような気がするからだ。

怒られる人にももちろん何かしらの原因がある。今回のわたしのように、車の運転における目線など、すぐに危険に繋がりかねないならなおさらだ。だが、言い方と態度というものがある。丁寧に扱って欲しいとまでは言わないが。

教習所はとてつもなく怖い。
毎回固定の教官ではなく、毎回異なるからだ。行ってみないと誰に当たるかわからない。もしかしたらとても良い教官かもしれないし、すぐに怒るような人かもしれない。言ってみれば、くじだ。

アタリハズレの確率もわからないし、尚且つ二度同じ教官になるのかもわからないが、あの狭い空間で、心がへし折られないように強くなるのが何よりの生きる術だと思う。泣きたくない。

はあ最悪だ。雨だというのに教習所に傘を忘れた。次回教習所に行くのはゴールデンウィークだ。頼むから、雨よ降らないでくれ。

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