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「エールはどこに消えた?」~私の銀行体験談 前編~

久しぶりの投稿ですが、私の銀行体験談を書きたいと思います。

私が銀行にいた期間は1.5年しかなく、とても短い時間でしたが、自分にとって間違いなく強烈な体験で、それ以降の自分を形成した期間であったし、それ以前とそれ以後は本質的に自分が変わってしまったとすら思えます。
それは銀行という特殊性が与えてくれたものなのか、あるいは初めての社会人経験は多かれ少なかれ強烈で、皆似たような経験をするものなのか、私には確かめる術はありません。銀行に入るとこのような経験をする、と一般化するつもりももちろんありません(*1)。なので、あくまで私が個人的に経験したことを綴ったのみであることをご理解ください。

この体験談はただのポエムであり、ただの回想であり、酒の席で「あの頃は楽しかったなぁ(そうです、楽しかったのです!)」と話す類のただの思い出話です。将来のキャリアの参考にしようなどと思って読んでも、得られることは何もないであろうことを先に明記しておきます。
じゃあ、なぜ今回noteに書いているかというと、あまりにも体験が強烈だったので、興味がある人とシェアしたかったのです。そして、誤解してほしくないのですが、私は育ててくれた銀行にとても感謝しています。
前置きが長くなりましたが、それではお付き合いください。

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■入社まで

2006年3月某日、4月より入社することになる青色銀行から遂に配属先が発表されるとあり、私は朝から緊張していました。
内定を貰ってから、これまで1度だけ配属希望面談があり、私は銀行の中でも大企業を担当する青色〇ーポレート銀行への配属を希望していました。

当時、「ハゲタカ」という小説を読んで激しく影響を受けていた私は、本店の中でも最終的にはM&Aの資金をファイナンスする部署で仕事をしたかったのです。

「銀行は人事が全て」と言われていますが、その当時も「最初の配属支店でその人への銀行からの期待度がわかる」などとまことしやかに噂されていました。当時、一般的に、新卒の銀行員にとって一番良い配属先は、大型支店(丸の内支店、新宿支店、渋谷支店など。支店長が執行役員クラス)と言われていました。しかし、青色銀行の場合、少し特殊でいきなり本店ナンバー部への配属がありえたのです(*2)。本店ナンバー部といえば、銀行員にとって憧れの地。かの半沢直樹も支店長の不正を見逃す代わりに本店営業部への異動を希望していたと記憶していますが、支店で結果を出した人間だけが行くことが許されるエリートの地です。そこに新卒でいける(かもしれない)というのは青色銀行を選んだ理由でもあったので、なんとしても行きたかったわけです。

昼頃、届いた封書を恐る恐る開けると辞令はにはこう書いてありました。
「青色〇ーポレート銀行人事部付を命ずる」
おお!青色〇ーポレート銀行!めちゃくちゃ嬉しい!
でも、ん、人事部付?という感じで自分は人事部の仕事をすることになるのか不安になったのを覚えています。嬉しい気持ちも冷めやらず、親に青色〇ーポレート銀行に配属になったと報告すると、親にとっては、青色〇ーポレート銀行は旧日本K業銀行のイメージがあるので、とても喜んでいました。

そんなこんなで事務手続きを進めると、青色〇ーポレート銀行は4月の入行(*3)から10月まで座学と本店での研修があり、本配属は10月にされること、それまでの期間は基本的に寮に入ること、がわかりました。なるほど、10月まで試されるわけね。やってやらぁ!という新たな気持ちで4月を迎えました。

10月まで住むことになる寮は中央線沿線の某駅にありました。駅からスーツケースを引きずって歩くこと10分、目的の住所に着くと、なんと建物が思ったより豪華かつ綺麗でびっくりしました。中に入ると、やはり豪華かつ綺麗で、まるで何かの保養所のようでした。管理人夫婦に挨拶をして、管理人夫婦がいい人であることにほっとし、案内された部屋に行くと6畳ほどある1人部屋は綺麗で快適そうで感動しました。共同のお風呂を見てみると、なんと湯舟にライオンの銅像があり、しかも口からお湯が出ていました(マーライオンみたいなあれ)。提供される食事も美味しく、レクリエーション部屋もあり、自習室もあったその寮はは控えめに言っても天国でした。
聞けば、昔は支店長クラスが単身赴任になったときに使っていた寮だと言う。自分は何てラッキーなんだと感謝しました。寮には同期となる仲間が25人ほどおり、いろいろ情報交換しながら仲良くなり、入社式の日を迎えました。

■地獄の合同研修合宿

入社式は日比谷公会堂で行われました。当時、総合職だけで1,000人ほどの採用人数だったので、入社直後の合同研修は3班に分けられ、自分は2班でした。つつがなく終わった入社式後に、第1班は早速、バスに乗り込み多摩にあるという研修所に向かいました。合宿は2週間あり、残された我々は恵比寿にある研修所に向かい、我々2班の研修生活は始まりました。
自分が合同研修に行くまでの2週間で何を勉強したのか、全く覚えていないのですが、唯一覚えていることがあります。それは、第1班の人間が週末に一度、寮に帰ってきたのですが、皆一様にやつれていたことです。そして、彼らは内容については全く教えてくれませんでした。「フ、行けばわかるよ」と言った感じで、余計不安になりました。

さて、あっという間に自分達が合宿に行く番が来て、多摩の合宿所に降り立ちました。合宿所はなんというか異様な雰囲気で、何が異様かと言うと、玄関から入るとそこが4階という表記になっており、1階まで地下になっているのです。なので、基本的には地下生活になります。これは、研修中に逃げる新人を逃げられなくするため、などどいう噂がまたしても流れ、我々をさらに不安にさせます(*4)。

講堂に集まり、同期とワイワイと待っていると、教官(30代前半位の割と若い方)がつかつかと教壇に来て、そこでいきなり、
ガッシャ―ン!!!」とマイクが置いてある教卓を蹴り飛ばしました。私は飛んでいくマイクがスローモーションのように見えました。
そして、「ふざけるな!お前ら!」と鬼の形相で怒鳴られました。我々は全員びびって、シーンとなりました。
そこから、怒涛の流れで説明が始まります。要約すると、軍隊のような生活でした。教師とすれ違うときは、止まって挨拶をするとか、風呂の時間は交代制とか、部屋は8人部屋のたこ部屋とか起床・就寝時間は決まっているとかそんな感じです。我々は初日に完璧にびびっているので、あっという間に軍隊生活に染まりました。
そしてなぜか毎朝、ガンガンの大音量の音楽でむりやり起床させられました。初日がクリスタルキングの大都会で、いきなり「アッ、アッー、果てしない~♬」と流れてきたときはびびりました。
そして、食事はこれまたなぜか炭水化物に炭水化物を重ねてくる料理(焼きそばとご飯とか)で、我々の思考力はだんだんと失われていきました。

■最後の難関「コマ絵」

なんやかんや合宿も進み、しっかりと調教されてきた我々に課題が与えれます。それは当時「コマ絵」と呼ばれていた(確か。若干記憶が曖昧です)競技で、いうなればオリエンテーリングに近いものです。
全体の概要としては、「8人1班となり、協力して指定されたチェックポイントに指定された時刻にチェックしていき、ゴールする」となります。
手渡されるものは、いくつのチェックポイントにスタートから何分後にチェックインしなければいけないかという指示と「コマ絵」と言われる写真です。すなわち、写真の風景通りに進んでいくとチェックポイントにつけるわけです。時間については、時計の持ち込みが不可なので、何らかの方法で時間をカウントしなければいけません。指定された時間と実際にチェックインした時間のズレは、多くても少なくてもマイナスポイントになります。

やってみるとわかるのですが、キモは①どうやってチェックポイントを発見するかと②どうやって時間を計るかの2点になります。

毎日、合宿での通常の講義・講習が終わった後、自主練習という名の強制練習が課されていました。毎日の試行錯誤の結果、我々は下記のようなシステムに落ち着きました。

①については8人のうち、2人が前衛で先に行って風景を確かめてくる係、1人が分かれ道に立って、どちらかの前衛が返ってきた場合のつなぎ、1人が中継といった感じで、ある程度の人数を本体から先行させることで、判断します。
②については、各班やり方が様々でしたが、我が班は「森のくまさん」を60秒きっかりに歌うように訓練して、何曲歌ったかをカウントすることで時間を計りました(*5)なので、1人は歌う係、1人は歌の回数をカウント・記録する係、2人はバッファーとして待機、といったコンビネーションで臨みました。

合宿最終日、ついに決戦の時は訪れました。
朝の目覚めのミュージックはロッキーのテーマでした。すっかり調教された我々は誰も笑う人はいません。決戦の地はこどもの国公園。だだっぴろい公園をいい年した大人が森のくまさんを歌いながら走り回ります。
ゴールすれば青春ドラマのように教官役の先生達と大円団を迎えます。
そして立派なソルジャーが生まれました、大変ありがとうございました。

■無力さを痛感する本店研修

熱い合同研修から帰ってくると、銀行配属の同期は皆支店に帰っていきます。我らは恵比寿の研修所です。10月までの配属の間に本店で2回、各2週間の本店研修がありました。
私は化学部品業界を担当する営業部とノンバンク/リース業界を担当する営業部で研修をさせてもらいました。そこで待ち受けていたのは、自分たちが何にもできないという事実です。

化学部品業界では、当時、液晶VSプラズマのテレビ戦争が最盛期で、業界全体が勢いがありました。営業部の諸先輩方は業界動向、テレビの部品や素材の最新動向を把握しており、かつ、銀行内部のロジも完璧でした。会社から相談される内容も、やれ会社全体の資金管理システムの最適化やら、資金決済のヘッジ/デリバティブなどあらゆる話を一手に引き受けて、銀行内の各専門部署と話をコーディネートしており、自分は何一つわかってない!と激しく落ち込んだことを覚えています。稟議の書き方も、営業先でのトークも、提案の仕方も、銀行内でのロジの組み方も、札勘(*6)も何もできないのです。これでは、旧来のやり方、すなわち銀行の支店から順々にあがっていくシステムの方がよかったんじゃないか、支店配属のほうが結局良かったんじゃないかと思ってしまいました。

ノンバンク/リース業界はさらに特殊で、やれ不良債権を台湾で買うからファイナンスしてほしいだの、某テーマパークを運営する会社が天候デリバティブを買う提案をするだの、航空機リースのファイナンスをするだの、もっと金融的に専門的な話が多く出てきて、電話を取るだけで研修は終了はしました。。研修を受け入れた側も忙しいわ、その新人が来るわけじゃないわであまり積極的な対応はありませんでした。

そんなこんなで、自分がそこで働く姿をあまりイメージできないまま怒涛の本店研修は終わりました。

■束の間のリラックスタイム

研修所での研修内容は多岐にわたり、融資、決済、為替といった基本的な銀行業務から、粉飾決算を見抜くグループワーク、メンタルを鍛えるといった名目のひたすら罵倒されるグループワーク(*7)などいろいろありました。
お勉強それ自体は楽しかったのですが、やはり4月から10月まで6か月も研修となると、だんだん慣れてくる部分も出てきます。しかも研修は5時きっかりに終わります。やることがないので、飲みにでも行くかと同期と連日お酒を酌み交わしていました。合同研修でソルジャーになったかと思いきや、また学生気分が戻ってきてしまうほどにはぬるい環境でした。

■配属発表

そして、ついに配属発表の日。一人ずつ皆の前に呼ばれ、辞令を受け取ります。
予想を裏切ることに、地方営業部(大型の都市にある営業部)の辞令を受け取る同期がいました。「え!あいつ広島?」といった驚きが、発表のたびに起こります。

そして、自分が受け取ったのは「大阪営業〇部」という辞令でした。

後半に続きますが、誰得なんだろうと自問自答しています。

(*1)同期には「お前の部署は間違いなく特殊だ」と言われたことだけは明記しておく。
(*2)青色銀行は当時コース別採用というのがあり、銀行コースというものに申し込むと、青色銀行もしくは青色〇ーポレート銀行への配属になった。銀行コースは全体で600人ほどの採用、うち100人位が青色〇ーポレート銀行への配属になったと記憶している(間違ってるかもしれません)。
(*3)銀行では入社と言わず、入行ということを習った。御社ではなく、御行、貴社ではなく貴行という。
(*4)赤色銀行では実際に窓から新人が逃げ出したらしい、とかN証券会社では居眠りしていた新人が別室に連れて行かれ、帰った来たら顔に青痰があった、などという噂が流れました。
(*5)大人しそうな東大卒の人にやってもらいました。彼は1週間ずっと森のくまさんを60秒きっかりで歌う練習をしていました。
(*6)お札を手でカウントするアレです。縦勘と横勘があります。一応、合同研修で習いました。
(*7)某元リクルート出身の人が創業した人事系コンサル?が提供したプログラムでした。モチベーションを社名に入れてるのに研修で全くモチベーションがあがりませんでした。