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原宿。私的『同潤会アパート』物語。

同潤会アパートの成り立ちをウィキペディアを参考にしながら、紹介しましょう。 
 同潤会は1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興支援のために設立された団体である。そして当時、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進にも従事した後藤新平の尽力もある。後藤が目指したのは復旧ではなく、復興であり、耐火に強い帝都を構築することこそ後藤の目的であった。同潤会アパートは耐久性を高めるべく鉄筋コンクリート構造(RC造)で建設され、現在では当たり前の工法であるが、当時としては先進的な設計であった。 
 大東亜戦争の戦火を生き抜いた原宿の同潤会アパートは憧れの地であり、なんとなく近寄り難い場所でもあった。私が中学校の時にイカ天、ホコ天ブームがあった。原宿に行けばイカ天に登場していたバンドメンバーや、芸能人、有名人に会えるという漠然とした憧れ、憧憬の念があったが、同潤会アパートはなんとなく陰気な印象で入るのを憚られたのである。しかし、実際中に入ると、アクセサリー屋があったり、ファッションのお店があったり、外観とは違い、中は若者が新しい文化を形成していた。外観の大正時代の影を宿した陰気さとは別に建物の中では独自の煌びやかな文化が萌芽していた。
 しかし、久世光彦が同潤会アパートを借りたがっていたが、なかなかうまくいかない。久世さんの前には500人も待機する人がいたというから、あの空気感に魅了された人が数多くいたという事実であろう。
 私個人の話に再び戻る。私がよく通った、原宿全盛期の時にはストレィキャッツのメンバーとすれ違ったり、当時は芸能人のお店が多数あった。山田邦子、梅宮辰夫、田代まさしなどなど。原宿に輝きがあった時代だった。悪役商会のタレントショップがあり、八名信夫さんに色紙と、生写真にサインしていただいたのも良き思い出である。きちんと話した初の芸能人であった。
 最後に残っていた三ノ輪は2009年(平成21年)。上野下は2013年(平成25年)に取壊しとなり、全ての同潤会アパートが姿を消した。
 そして有名なのは、代官山アパート跡地に2000年(平成12年)に建築された「代官山アドレス」、青山アパート跡地に2006年(平成18年)に完成した「表参道ヒルズ」であり、私が今回訪れた場所である。
 2006年に表参道ヒルズが出来た時に物見遊山で行ったが、昔の同潤会アパートを綺麗に再現したイメージであった。しかし、15年の月日を経て、蔦が育ってくると心なしか風格が生まれてきている。完全とは言わないが、段々と大正に生誕した同潤会の面影を受け継ぐようになってきたのではないか。
 また行く時には新しい古さを兼ね備えていることを楽しみにしよう。


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