見出し画像

禅の思想を読んでる2

Noteで使わせていただいている素敵なお写真にインスピレーションを受けて、「禅の思想」(鈴木大拙著)から、少し脱線します。

瞑想の目的はいろいろあるのですが、すべての瞑想を突き詰めれば、ゴールは涅槃なのだと習います。涅槃=ニルバーナ。 ニル(無)+ワーナ(苦)から来てます。

ヨーガの瞑想はアートマン(真我)とブラフマン(宇宙の根り)は同じである梵我一如(ワンネス)となる修行法であり、その過程です。

お釈迦様の瞑想は、少し違います。二人の偉大なヨーガの師の教えをマスターしたお釈迦様が、それでも腑に落ちなかったことは、「苦とは何か」ということの答えでした。

絶対真理・三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)そして、人類にとっての真理は「生きている」ことは「一切苦厄」だということ。

ヨーガの瞑想とお釈迦様の瞑想の共通点は、無分別(涅槃)、違いは ヨーガはそこに留まること、ワンネスの体験と、神聖な修行者である肉体の苦痛を感じなくなることを求め死をも厭わない存在になることです。しかし、お釈迦様は「苦行では悟れない」という悟りを得たのち、ヨーガでも使われる呼吸法と瞑想法によって、分別から無分別そして、また智慧を持った状態で分別の衆生の世間にもどってきて物質である肉体が老い衰え終末を迎えるまで、その智慧を使って「苦」から離れる「生き方」を「悩み苦しむ人々」に「苦から離れる行動の仕方、考え方」を教え救う人になったのです。

日本には箱庭文化があり、お寺のお庭なども「浄土」を表すなどの世界観があったりと、大元のお釈迦様の教えとは少しずつ変化をしてきた仏教です。

クリスタルの金魚鉢の中に入ったかわいいお庭は箱庭に、また自分が、小さな金魚鉢の箱庭をのぞき込んでいるというのが永遠に繰り返されているのではないかと想像させられるとても良い作品です。

ということは、今の私をのぞき込んでいる私がいるかもしれないと考える合わせ鏡の魔境のような妄想にとらわれてしまいますが、お釈迦様は妄想を捨てなさい。と言いました。ありのままを見る力「正見」。初期仏教の仏典に起こされているお話では、悟りを開いたお釈迦様は、自分の苦行仲間(従兄弟や付き人)5人に自分の悟りを伝えたのが、絶対真理 三法印、聖四諦、八正道だと言われています。

やっとここで「禅の瞑想」のお話になりますが、「禅」というのは「禅定(ぜんじょう」から来ていてサンスクリット語「ディヤーナ(漢語禅那)」から来ており、仏教では心が動揺することがない状態をさす言葉から来ています。

心が動揺しないとはどういう状態かというと、通常人は反射的に「反応」してしてしまいます。熱くもないのに 湯気を見て、何かが触れると「あち!」と言ってしまったり。。体が反応することですでに学習した反応が出てくるのです。PCも「Cookieをオンのしてください。」とか「キャッシュを削除しますか」など、処理速度を早くするために記憶する機能が付いているように、人間も脳みそを常にフル回転させなくてよいように反射神経というのがあります。

瞑想状態で動じない状態というのは、何かを言われたとき、今までの自分だったら「なんでそんなこというの?!ひど~い!あんたなんて嫌い!」という様なことが突いて出てしまいそうなのですが、瞑想の段階を踏んでいくと外側で起きていることを深い海の底から見上げる海面の動きのような静けさを味わうことができます。波立っている海面は忙しないですから、そこに浮かんでいる小舟は右往左往し、深い海の底からその波を見上げている周辺は穏やかなもので、深海魚なんかも、の~んびりと泳いでいるわけです。その状態が、禅定というわけですね。

しかし、そこはまだ涅槃ではありません。その深い深い動揺しない場所が出発点となり、そこからはテーラワーダ仏教の瞑想も禅の瞑想も段階がいくつもあります。テーラワーダ仏教は17段(細かく44とか108とか?)、大乗仏教は9段 その間にたくさんの状態を経験するかもしれないという道しるべがそれぞれありますので、ご興味がある方は調べてみると面白いかもしれません。

さて、禅の思想では、無分別からの分別に戻ってきたときに使える知恵「清浄後得智」という名前がついているのですが、そこは釈迦の「八正道」や阿含経中経をご参考いただければと思います。

禅の思想も第2章も中盤に入りとてもワクワクして読んでいるのですが、何とも「言葉にできないことを言葉にする」「言葉にしてもわからないように言葉にする」という禅宗の不思議さをやっと理解することができました。理解したというとおこがましいのですが、「分からないことは分からない。」が「解ることは解る」ということなのです。

でも、どんなに言葉を尽くそうが「無分別」「涅槃」を語ることはできないのです。

そこで、長年不思議に思っていた、「ワンネス」や「至福体験」などの現象について心理学を皮切りに脳科学(これは学術的には専門家の方のご協力がないと無理だと思いますが)説明できたらよいと思いましたし、それが今後、多くの方にお役に立つようなものであったらよいなと考えました。

現在、自分なりに仏典や経典を少しかじってみて、仏教学者の鈴木大拙禅師の著書を拝読した結果。。。。

「ワンネス」という感覚や「至福体験」は「涅槃ではない」なぜならば。。。。無我になってないからです。

夢を見ている状態はまだ「有我」

ワンネスを感じている状態も「有我」

「無我」になった時はもう

普通でも時々起こる「我を忘れる」状態

なので「温かい」とか「幸せ」とかも感じられることはないと。。。

残念ですが 分からないことは言葉に表すことはできないのです。

無我も体験してみなければ分からないですが、体験したところで分からないのですw。なので みんな体験しているかもしれないけれど、覚えてないから、いつまでもそこへ生きているうちにたどり着こうと試行錯誤しながら瞑想することができることが人間の特権なんだと思います。

「禅の思想」を読んで 腑に落ちました。

「有頂天」というのが仏教用語だったとは知りませんでした。

生きているときにたどり着ける究極のところなのでしょうか。
非想非非想処天、でもそこにはとどまらず、みんなをそこへ連れて行こう、というのが大乗仏教「臨済宗」などの「菩薩」の役割だということだそうです。

言葉で言い表せない無我は、自分が行きついたかどうかさえも覚えてないというお話でした。

~Sagjo~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?