勝手に超越体験(6)告白・超越的体験とクオリアと超弦理論についての持論

ここまで引き続き興味を持ってくださる読者の方ありがとうございます。現在、心理学を入門から学びはじめ、ひとつずつパズルの穴を埋めるように知識の駒を増やしならが、人生の振り返りをすることができるようになりました。

また「鈴木大拙師」の著書を読む会に偶然出会えたことで、日本の仏教(浄土真宗)についても知識が深まり、30年前には瞑想などというのは、インドの山奥で行われる秘儀程度にしか知らなかったことを日常の中に取り入れるまでに変化した自分に驚いています。

他にも昨年よりひょんなことからはじめた写経を通じて、釈迦ブッダに興味を深め、ご縁をいただき禅についても少しずつ学び始めました。新型コロナパンデミックのおかげで臨済宗円覚寺管長横田南嶺老師のご説法をYoutubeを通じて毎日拝聴することもでき、 この10日ほどで、私の心を安定させた言葉と出会いましたので、私の体験談を続ける前に ご紹介したいと思います。

1 盤珪禅師
こちらは300年以上前の臨済宗の禅師であり、先日鈴木大拙師の勉強会において円覚寺にて横田老師による禅宗の講話をきっかけとして、予習のつもりで臨済宗円覚寺派のYoutubeで横田管長の動画にて出会いました。

横田老師の語りに引き込まれているうちに、盤珪禅師が人々へ伝え続けた悟り「仏心」と、人は修行によらずとも悟り、決定することができるという教えにいたく感動しました。そして第12回では、盤珪禅師が26歳で仏心を悟ったにも関わらず証拠人に適う禅師に恵まれなかったが、日々やるべきことをやり、人々に教えを説き続け、唐(明)から長崎で住持を務めた道者超元和尚によって「生死を超えた」と証拠人に立ってくれた。という下りがあります。

盤珪禅師は誰でも「仏心」であることを自分で気づいたと思う人の話を聞き、証拠人になってあげたい、そしてまだ腑に落ちない人たちには何度も話を聞いてもらい、わからないことがあれば何でも質問してほしいとおっしゃられた。

なぜかその時、横田老師の声を通じて、盤珪禅師が「それでいいんだ」とおっしゃってくださったように聞こえ、この体験をしてから初めて深く安堵し、腹の底に溜まっていた吐息が泪と共に漏れました。(第12回)

曾祖母から「能ある鷹は爪を隠す」という言葉が伝えられ、この世には多くの賢者や悟り人がたくさんいらっしゃるけれども、各々自分は鷹だといわずとも、日々の生活の中で智慧を活かし、周りの人や、また世界の人々を助けている様子をうかがい知ると、やっとスタートラインに立った私とは雲泥の差を実感しています。そうした中で、誰かに認めてもらいたいという想いは、盤珪禅師も同じであり、またそれを「それでいいのだ」と分かる人に出会えるまで日々、やるべきことをやるしかないんだ、ということを理解した喜びが感じられました。

動画の中でも「時節」というものが語られていて、私にはまだその機が熟してないのでしょう。30年寄り道をしながらやっと何を体験したか理解したのですから、ここから初めの一歩だと理解しています。

2ー心理と教育へのいざないーを学んでいて、現在51歳になった私が改めて心理学という学問を学び始められるチャンスに恵まれたのも「運が良い」としかいいきれないのですが、この年から大学生と言え「生涯学習」という領域になり、人生の振り返りと共に、これからの生き方を考えるための学習だということを実感しました。

「自発的な学習」こそが生涯学習なのですが、教科書によれば「『自分の人生を意味づける』(making-meaning)ことが重要な目標になり、学習課題だ」と、書かれています。自分のストーリーを語ることは、アイデンティティを確認し、作り上げていくことでもある。(中略)自己を物語る学習の例として、「ナラティブ学習(narrative learning)があり、自伝的活動とされる。

「自分の人生を振り返り、自分の人生を解釈、再評価し、意味づける学習は、自分の人生を肯定する重要な学習と言えよう」(放送大学 岩崎久美子教授)

これを読み、心理学を学ぶことが自分の人生のために重要であること、また自分の体験を改めて振り返り、それが自分のアイデンティティの再構築をしていくんだという理解をしました。

3番目として横田老師から拝受いたしました「鈴木大拙一日一言」という本の中で、自分の心の中である「想い」が、鈴木大拙師の言葉として残されていることを知り、共感の驚きと この体験をいかに伝えるかというのを考え直さなければと、立ち止まった理由でもあります。 何を伝えたいか。難しいです。その点、先達の的確な表現にはただただ、頷くばかりです。

6月4日ー 生命と愛② 生命は、限りなく錯綜した相違相関の網であるから、愛の支えなくして生命たり得ない。愛は、形を与えようとして、さまざまのすがたに自己を表現する。『禅』
6月14日ー真実の言葉② 生きた体験を語るのは、生きた言葉でなければならない。使いふるした比喩や概念によってはならない。『禅』
10月24日ー極楽 極楽というところは久しくとどまるべきではない。とどまってもしようのないところだ。ありがたいかしらんけれども、ありがたいだけでは何もためになりゃしない。ただ自己満足ということになる。それだから、どうしても極楽をみたらただちに戻ってこなければならない。還相の世界へ入らなにゃならん。『鈴木大拙ー人と思想ー』「鈴木大拙一日一言」(致知一日一言シリーズ) 横田南嶺老師

さて、ここまで学びましたが、そのまま(4)の続きに戻ります。

そして、トンネルはワームホール?

自分が光子にでもなったんじゃないかというほど軽くなり、 深淵に向かって旅が始まり、巨大なトンネルの壁の色がまるで昔のウルトラマンのオープニングのようなマーブリングの模様が現れ始めうごめいていた。

色の変化の不思議とスピードの変化を観ながら、 自分が飛んでるのではなく押し出されているのか吸いこまれているのかわからななった。、今まで飛んでいた周辺の光の玉たちも 光の線も次第に細く 閃光に代わっていった
「うぉーーーーー!」
声にならない叫びが自分の中の感覚にこだましていた。
そのマーブリングの色がだんだんと混ざりあいながら、色が濃くなっていき、圧が加わってくる(ような気がしている) 「つぶれちゃうー!!!」って思うほどのどんどんスピード感(のような気がした)

ちょっと脱線

ここで、人に説明するとき、 カール・セーガン原作の「CONTACT」を持ち出してます。 観たことのない方はぜひ、名作コンタクトをレンタルしていただいて、そのシーンで想像を膨らましていただきたい思います。

1997年 ジョディ・フォスターが好きで、カール・セーガン好き、SF好きの私のドンピシャにはまったその映画中 私はそのシーンを観て、号泣しました。 嗚咽と涙が止まらなかったです。今なら、USJのハリーポッターとかのアトラクションで3Dのような体験ができるのですが、それに圧迫感とスピード感がさらに加わればよいかもしれません。思えばTDLのスペースマウンテンでもよい。 人によれば「それは産道を通っている記憶じゃないか?」という方もいらしたので、何かしらの体験をされている方や映画をご覧になった方は想像がつきやすいと思います。

この映像制作者も知ってるんだ

という共感がありました

話は戻り

今まで、色々なマーブリングの色が見えていたのが混ざり合ったいろが、黒が優勢になってきて、赤も青も黄色もすべてが黒に溶け込み、すべての色が黒に飲み込まれた。
呼吸の苦しさとは違い、とにかくつぶされるような感覚のままスピードだけはマックス。「つぶれるぅぅっぅぅーーーーー」(痛いのではないけれど、恐怖だったのかもしれません。ワクワク感はありませんでした。

目を見開いているの黒しか見えない。 黒!でもその黒は 最初に はまった闇とは違う。
もうつぶれると思うほど自分を圧縮されると、遠くに 針の孔が開いたように光が見えます!でも、これも、最初に 「星が生まれた」とは違う光。

そこへ向かって自分が進むのか。光がこちらに向かってくるのか?
よくわからない・・・光は広がっていく

そして、


BOOOOO_WA_AAAA_UUUU_MMMM!!!!

今度は 黒の逆の世界に出ました

次回へ


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