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肌感覚と般若心経とヴィパッサナー瞑想

2014年の記事を読んでピンと来て
般若心経とヴィパッサナー瞑想のお話をつらつら。。

人間の皮膚にあるニューロンにも脳のような計算処理能力が存在
https://gigazine.net/news/20140903-neurons-in-human-skin-perform-calculation/

毎度おなじみ般若心経の写経で出てくる
「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」の行。

心理学で習った錯視は、眼から脳へ
人間は眼からの多くの情報が入り都合の良いように処理される、耳からも鼻からも舌からも体からも気持ちもそれは、その時時の条件に応じて、変化する。

眼からの情報に頼る癖があるけれど、昨夜中途障害で目が見えなくなった女性のお話を伺う機会を得た。その分耳から情報収集し処理する能力が高く、大学の授業にもついていけたと話されていた。

実際はそれぞれの器官に同様の情報を処理する機能が備わっていて、脳との連携で、自分自身が感じる自分の外の世界が異なる。

瞑想法にはいろいろな手法がある中でヴィパッサナー瞑想は、眼からの刺激を遮断するために目を閉じる。(もともと瞑想の漢字の意味は目をつむり/瞑り、一つのことに集中して想う)という意味をもつ漢字で、ヨーガの修行の一つにあるそうです。(釈迦はもともと二人のお師匠さんの下で瞑想をマスターしていたので、ヴェーダのウパニシャッド/奥義の瞑想法も習得していたと考えます。)
ヴィパッサナー瞑想は、それまでの冥想法の一つアナパナサティ/安那般那念(呼吸法による集中-禅の止観の止の数息観に似ているけれど、ちょっと違う)から始まり三昧(サマディ)を経て、次に禅の止観の観の段階で、サティパッタナー瞑想法から肉体の感覚(sensation)、感情(feeling)、心(mind)の状態を順番に見つめ一つずつ、よい感じ、わるい感じ、よくも悪くもない感じに分類して認識しながらそこにとどまらずに次へ進むというプロセスにてマインドフルネスへたどり着き、ヴィパッサナー/毘鉢舎那(観)で正見/サマ・ディティを得るところまで。

さらに三昧を経てその先のダーマ冥想/ダーマヌパッサナが進むと慈悲慈愛/メッタを知り、全ては三法印(無常、無我、涅槃寂静)であることを知る有頂天/非想非非想処。

その先は涅槃/ニルバーナへ入るプロセスがあります。(ヴィパッサナー瞑想は実践と理論の両輪で修得していく瞑想法で私はゴエンカ式を学びました)

サティパッターナ冥想の最初の段階が肌感覚を観るのですが、脳が全てを処理しているわけではなく、各感覚器官によってある程度処理されているというのがこの記事だと思います。

したがって、実際の感覚なのか、いままでに体験して学んだ既知の感触と類似の反応なのか、純粋無垢の感覚なのか、全くの錯覚なのかは、体験している本人次第だということなのということで、
絶対の万人共通の眼耳鼻舌身意と色声香味触法は皆無であるというのが成立する、ということを勝手に納得しました、
というお話をつらつらと書いてみました😅

それでも、なお誰かの痛みや喜びを共感できるのは何故か、は、最近科学者たちの興味は「意識」に向いてきているとなるので、「無分別」研究へ無意識に導かれる科学者たち。これもまた、鈴木大拙禅師の著書に出会ってなかったら知らなかった言葉。。
出会いって本当に面白いですね。
人間万事塞翁が馬🐎🐎🐎🐎

Physicist Gregory Matloff argues that a “proto-consciousness field” could extend through all of space.NASA via Reuters
(物理学者のグレゴリー・マトロフは、「原始意識フィールド」がすべての空間に広がる可能性があると主張しています。)NASA

https://www.nbcnews.com/mach/science/universe-conscious-ncna772956

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