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ヴィパッサナ―瞑想と慈悲の瞑想について考察

感染者増加は止まっていない

Covic-19の第3波が年末にかけて広がり続けている。この流れは明らかに日本の対策から考えれば、先に集団免疫論を主張したスウェーデンを賞賛してきた人たちの思考パターンや行動パターンを観れば、そんなに不思議ではない。スウェーデン国王が「対策は間違えていた」と認めたニュースを観ずに GoToを使って観光地でエンジョイしている人もいるかもしれない。
そういう私も GoToを利用させていただいた。想った以上に日本は広かった。観光客のほとんどいないところを探すのはそれほど難しくはなかった。

さて、なぜ、感じ悪い書き出しになってしまったのか。
ヴィパッサナー瞑想と関係するからなのだ。
今じゃ、どんなタイミングでCovic-19に感染するかなんてわからない。イギリスでも7割感染力を高めたCovic-19の株が発見されている。このまま強毒化しなければ有難いが、それはいろいろな要素がかかわってくる。まさに縁起の物語であって、正しく行動するために 正しく物事を見ることが大切になっている。

多くのヨガや瞑想実践者の中では、慌てず自分自身を見つめ、呼吸に戻りコロナ禍を乗り越える態勢を整えているだろう。集中三昧の状態からヴィパッサナー(洞察)瞑想を深め、パティパッサナ(追憶)を繰り返し、「正見」を得るのである。

Vipassana(ヴィパッサナー)のVi は分析を意味している。Vipassana は知的に物事を正しく見る能力・洞察力である八正道の「正見」に当たる。「正見sammā‑diṭṭhi」は八正道(Ariya atthangika maggaアリヤ・アッタンギカ・マッガ)の他7つを満たした上に成り立つ相互関係の性質を持っている。

では、なぜ今慈悲の瞑想の話題なのか。

慈悲の心がなければ医師も看護師も介護士も、家庭内で介護をしてる家族も続けることはできない。ならば改めて慈悲の瞑想なんて必要ないのではないかと思うだろう。

しかし、どれだけ慈悲というのが難しい事か考えたことがあるだろうか。

ボランティアも楽しいうちは良い。自己満足度も上がり、仲間もできるし、知的欲求も満たされる。体を使うのであれば、健康にも良いという程度の人たちは多いと思う。もちろん「人助け」が目的なのだから、役に立たないことはない。大切な行為なのだ。

しかし、そのボランティアにも限界がくる。そこに慈悲の大きさが関係してしまう。心は揺れ動くもの。辛かったり、苦しくなったり、妬みがでたり、疑問が生まれたりしたら、そのボランティア活動を続けていくことは喜びではなく苦行になる。苦行は釈迦が一番最後に「苦しみは苦行によっては解放されない」ということを覚られた。

私は恩師からヴィパッサナ―の先に「慈悲(Metta)」があると学んだし、それは体験上理解している。日常の中で「慈悲の瞑想」を行うことは重要だということは知っている。 まして脳科学的にも、まずは 「口に出して脳を騙す」「なりたいモデルの真似をする」「できなくても許す」など実際に「自分は慈悲を持って全宇宙の幸せを願う」し、「困っている人を助けてあげたい」し、「皆さんの幸せを祈っています」から「あなたの成功が心から嬉しい」ので、妬み嫉妬などなく「常に心は平穏だ」と唱え続けていればそういう自分に近づいていくし、そういう行動をしている自分を周囲が認知して賞賛をしてくれたら、自分自身の行動や思考を肯定できる。
心にもないことは実行できないわけなのだから、実行こそが大切だという現代の科学的アプローチなわけだ。

だが!

それはある程度心が強い人でないと難しい。自己肯定感の強い人、またはナルシストであったり、思い込みが強い人。気分転換が上手い人。そういう人たちはその人たちの道があるのだろうが、釈迦は思った。「間違った道を歩まない方法はないだろうか」と。「人生は苦であるということを彼らは直視しているだろうか?」 。その場その場しのぎで生きていくことは本来の楽にはたどり着けないと、小涅槃(当方の般若心経参照)から帰ってきた釈迦は思った。どうやって伝えようかと悩んだ。 今までの民が信じてきた宗教を捨てなければならなくなるほどの、当時は斬新的な発見だった。 まずは共に苦行し、自分から離脱した仲間たち5人に、法の真理である四法印 (諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 一切皆苦)と生きる苦しみ四苦八苦を滅することのできるという真理・四諦、真理を覚る道として八正道と中道を彼らに伝えた(初転法輪)。 真理を知るのが先か、釈迦の小涅槃へのロードマップに出会うのが先か、人それぞれだ。 「苦」から逃れたいと思わなければ、そもそも幸なのかもしれないが、最後に死の恐怖を乗り越えられる人も少なかろう。ということで、釈迦は、苦しみ救いを求めている人をいかに救うかという方法として、 八正道を通じて ヴィパッサナ―(正見)を得て、無識界を経て 慈悲捨楽を経験し、清浄後得智を使い娑婆でいかに人々を助けることに喜びを感じながら、肉体の朽ち滅びるのを待つ道があることを説き始めた。

仏典の中で釈迦は「あなたはどこに住んでいますか?出身地はどこですか?」と尋ねた。尋ねられた人は「ここに住んでいますが出身地は別の村です」というと、釈迦は「貴方は故郷とこの村を何度も往復しているので、一番早く、かつ楽に到着する道を知っています。ここに、貴方の故郷に行きたいという旅人に出逢った時、貴方はわざわざ到着するために時間がかかり困難な道を教えることはせずに、一番の近道を教えるでしょう?」と聞いた。「私も同じようにするでしょう。私は「真理」と「苦からの解放の方法」を知っています。貴方が迷っている旅人に一番近道を教えてあげるように、私もその真理と苦しみから解放する道を教えることができます。」

ノウハウそのものを伝えることにした釈迦は、科学、精神、心理などの学術世界の中で論じられるずっと前から、「人は一人一人違う(八万四千通り)。頂上へ続く道もそれぞれ違う」としたが、それでいて「一番近道を見つけたんだ」とそのロードマップとキーワードと、そのそれぞれの満たす一つ一つの目印をステップbyステップで弟子に伝えているのが、原始・初期を口述した仏典やパーリ語仏典に伝えられている。

「師として弟子にやるべきことは教えた。後悔することのないように瞑想しなさい」に繋がる。

中には、自分で気づきを得て体得したいんだ!という方もいるだろうから、それは良いと思う。しかし、2600年経った今でも多くの人が仏道に親しみを覚え、釈迦の残した言葉と共にそれを伝えるべく修行されてきた後継者たちと共に瞑想を始めている。きっと 理にかなっていると感じているからなのではないだろうか。

最近まで、有頂天という言葉が仏教の言葉だとは知らなかった。

wikipedea有頂天参照
そこは、仏教の世界観の1つであり、天上界における最高の天 Bhavāgra(非想非非想天(ひそうひひそうてん)、あるいは非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

私の体験から言えば、慈悲捨楽の世界はその有頂天の先にある。
釈迦はその先を知ったのであった。そこが滅尽定。そこには我存在しないのだから言葉にできるものではないだろう。

それらを目前とすると、自分の穢れや愚かさを気づかされるわけなので、なかなか慈悲の瞑想状態も私の中で薄っぺらなものになってしまう。結局は1へ戻り、一つずつ八正道と照らし合わせ、自分の不甲斐なさを改めてこの身に感じながら時々有頂天なる仕組みだ。私の人生とはそんなものだ。

もちろんイメージをすべて文字で表せるわけではないので、誤解を生むのは私の語彙力の未熟なところに因るわけだが、すべては慈悲捨楽なのだが、それをそのままでいられないのが人間であり、またこの肉体や精神に千差万別の感情や欲求が生まれてきて執着になって形をつくっていくのだ。想像力を使うならば慈愛捨楽は空そのものを構成している根本であり状態であるということ理解するのは各々の世界観に頼るしかない。(もちろん反論もあると思うが こればかりは色や匂いや感触を表現する以上に難しいのだ。いつかは端的に伝わる表現を見つけたい)

さて、ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想に話を戻そう

ヴィパッサナ―瞑想は生きる技術の知恵である。悟りの頂点ではない。

釈迦は知っていた。

誰もが慈悲を継続することは大変だと知っていた。だから繰り返しそこへ辿りつくためのロードマップを伝える事にしたのだ。
それでも釈迦は自分が【慈悲・捨・楽】を体現しようと腹をくくったのだろう。「決心」。釈迦は「いつするの?今でしょ!」の人だった。それは仏典の中のどこに書かれているのかわからないので、私の創作でしかない。ただ、生きるということは「一切皆苦」と言ってきたぐらいなのだから、一人ずつが「よし!やろう」と増えていけばきっと、苦よりも慈悲が増えると信じたのだろう。

もし迷ったら また呼吸に戻ればよい。

ヴィパッサナ―瞑想は慈悲・共感・思いやり・平穏・赦しへの道標であることは間違いない

一段一段丁寧に積み重ねて パティパッサナ(追憶)の技術を使いヴィパッサナーを得て、いつかは人々の助けになる慈悲になる行動していくしかない。

「学ぶ、体験する、伝える、見直す」の繰り返し

私の場合は 身口意を整えるところから始めている

指導者資格を取ったからと言って、仏陀ではない。

ただ、釈迦が残したロードマップは受け取った。
私も次の人に渡したい。

ヨガや瞑想だけが問題解決の方法ではない。

注意深く実行すれば決して悪いものではない。

自分を知ることで、生きやすくなる道でもある。

慈悲の瞑想までたどり着いた人はとても高尚だと思う。
(瞑想をしなくても慈悲深い人を知っているので自然に自省自問自答を繰り返し洞察力を磨いてきた人かもしれない)

釈迦曰く
「私のことを好きだという人が居たとしても同じぐらい私を嫌いな人が居て、同じぐらい私のことを知らない人もいる」

救われた思いだった。

釈迦を知らない人だっているんだから、今世、出会えない人は沢山いる。

さて、コロナ禍で 私は何ができるのか。

思い立ったら吉日で良いのだ。身構えず。誰かの役に立てるのなら。

とにかく、今はNPO法人の継続化給付金の申請をしなければならない。
これを読んでいる人で、申請が必要な人のために、情報を添付しようと思う。

9月1日以降 来年1月15日まで申請可 https://jizokuka-kyufu.go.jp/

NPO法人登録をしている団体のうち、運営費の50%以上が寄付金や会費の場合等、該当法人は、持続化給付金事務局に申請する前に、事前確認事務センターに事前確認を受ける必要があります。

電話でも丁寧に説明はしてくれるが、私の場合、まず法人番号が登録されていななったというケースだった。そんなこともあるのだから、試しに事前確認事務センターに13桁の法人番号を入力してみることをお勧めします。

登録手続きに2日ほどかかって、あちらから、申請可能になりましたとご連絡いただきました。

では、来年のことを話すと「鬼が笑う」というのが日本の古くからの文化です。

今を見つめ、苦しい時は一人で悩まず、助けを求めましょう!

私はここにいます。

皆様のご健康を心よりご祈念しております!

天野 Sagjo

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