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今、楽しい事

「果報は寝て待て」涅槃像の写真を見ていたらそんな言葉が浮かんだ。

「果報」とは、仏語で前世での行いの結果として現世で受ける報いのこと。転じて、運に恵まれて幸福なことをいう。
「寝て待て」といっても、怠けていれば良いという意ではなく、人事を尽くした後は気長に良い知らせを待つしかないということ。
<故事ことわざ辞典>

今、世界中に COVIC-19と称される新型ウィルスが広がっている。できることして後は寝ていようか。。とか。。

「こんなことが起きるなんて」

と、つぶやく人もいるかもしれないけれど、1000年に一度の大地震が起き10万年に一度と(保険屋)に言われたという噂の原発事故も経験している。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはよく言ったものだ。東日本大震災の被災者もまだ傷は癒えない。もっとさかのぼれば、原子爆弾を2発も落とされ、水爆実験で被ばくした国民が総出で世界へ向けて水爆実験禁止に向けて立ち上がった。なかなか稀有な国だ。

さて、そんなことを書きたかったのではない。涅槃像から連想が止まらなくなってしまった。しかし思い出しただけのことはあって、今の私は原発事故によって大きく影響を受けたといっても過言ではない。

産後をきっかけに躁鬱病のウツ期に突入したのが、311の大地震、原発事故の3年前だった。一年半はどうにかこうにかアルバイト先を変えつつも仕事を続けていたけれど、後半は「死にたい病」になって引きこもりになった。パソコンもどうやって使えばよいかも判らなくなってしまい、使うこともなくなっていった。

ところが、ある日突然、鬱の間に登録したけれど使い方が判らないまま放置していたFacebookのことを思い出して、開いてみた。ログインができて、すっと使い方が判るようになっていた。

初の友達検索で出てきたアメリカ在住の友人と数年ぶりにコンタクトを取ったのが3月6日。その5日後に大震災。。。偶然とは言えば偶然、ただ母が大好きだったその友人と連絡をとれたというのも、その数年後に起きた奇跡的なタイミングに繋がる。この話はまた別の機会に書くことにする。

調べもの開始

「放射能って?」「原発って?」。根掘り葉掘り調べていったら、いろいろな仕組みが分かった。

そのあとも、何か気になることがあるととことん調べる癖がついていった。ある程度までストーリーとして納得できるまで調べた。

あれから9年、いろんなことを調べまくった。そこで気づいたのが、曾祖母が母へ伝えた言葉、「いつかは、ここに座っているだけで地球の裏側のことまでわかるようになる」の意味を実感した。ネットのことを言っていたのかも知れない。ただ曾祖母は無意識にだが幽体離脱ができるような特異体質だったから、ネットじゃないかもしれない。。。が。。そこは不明。

ただ今、まさにここに座りながら、自分の知りたいことを知ることができるようになっている。もちろんすべてではない。ネットには出ていない貴重な情報を持っている人や土地、本との出会いも大切だし、ネットはそれでも大いに役に立つことも学んだ。

今、楽しい事、それは「知ること」

知欲と性欲は似たよう脳の機能だと考えられる。知欲は性欲を刺激し、性欲は知欲を刺激する。知欲が性欲を勝ることもあれば、性欲が知欲を勝ることもあるけれど、私の場合、知欲と性欲が同じ割合で満たされている時が最高のエクスタシーだ。

原発のことを調べるうちに原子力、原子そのものに興味をもって小学生用の本を買って読んだりした。その知識をベースに 2020年2月号のニュートンプレスから出版された「無とは何か」を読んだ。 これほど面白い読み物はないのではないかと思うほどに知欲を満たしてくれた。

判らない言葉だらけなのに、30年前の体験が専門用語で書かれていることが直感的に理解できた。そして「無とは何か」を改めて言葉として理解しようと自問自答。 自慰的行為そのものかもしれないが、得た知識と自分の想像の世界のなかで行きついたその答えはたまらなく気持ちの良いものだった。

そこで新たに生まれた問い

「無から何か生まれるのか」

私が、体験した「光の世界」というは、確かに「空(くう)」であったが「虚」でも「無」でもなかった。

アートマン(真我)である「自分」が光の大河に入ったときに、まるでウィルスのエンベロープが解けてしまうように、アートマンの皮が薄くなり内在物(意識)が河の光へ溶ける入く感覚に襲われた。その先にある光の海と同化していくことを想像したときのことを思い出した。

「自分が無くなる」

なんと長い間言葉に惑わされていたんだろう

「無」などあるはずがないのだ。言葉として矛盾しているではないか。

「無」が「有る」

「無」は「無い」から「無」なのだ

言葉の定義は大切なのだろうから、きっと仏教の「無」哲学の「無」物理学の「無」数学の「無」文学の「無」芸術の「無」それぞれあるのだろう。そして私の定義とはこういうことなのだろう。

今の私が 人間の言葉で理解した「無」は 英語の 「VOID」であり「空」「VACANT」ではない。

「有るがない」状態を「無」という

無は存在しないので、無からは何も生まれない。

別冊ニュートンの「無とは何か」の中で説明されてる素粒子のミクロの「もやもや」で起きる対生成や対消滅、や陽子のなかでクォークをつなぐ「グルーオン」の存在は私を MAXにときめかせ、その一瞬で消えゆくクォークにも 役割をもっているということ理解したとき、全世界77億人以上の人類すべてが同じもので繋がっていることを感じられた。

「十人十色・千差万別 一人一人の人生は全て異なるが、一瞬で生まれ消えていクォークと同じくすべての人は使命ではなく、役割を持って生きて、死んで逝く。そして、その誰かの人生は、私自身の人生のもう一つの人生」

観えた瞬間から 笑いが止まらなかった。

今、楽しい事。それは「知ること」

「知らない」ということは、「新たな出会い」に満ちている。

不急不要の外出は自粛

せっかくなので 時間を有意義に使いたい。調べものばかりで家事と仕事が疎かになるぐらい、知らないことが沢山ある。眠れない。

睡眠も大事。

ゆっくり寝よう。

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