【連載】日本のストリートボール史 vol.13

- 現在へと繋がるイベント乱発編 -
※個人の記憶を奔放に綴った内容ですので、事実と異なる点もきっとありますがご容赦下さい。

2004年1月。初詣でどんな願い事をしたかは覚えていませんが、この年も日本のストリートボールの発展を祈り動き出しました。

昨年8月に行なった沖縄ツアーの映像もようやく完成し、DVDプレスの発注も完了。2月の前半に第3回目となるトライアウトの開催も決めて募集を開始。去年と同じく月曜と木曜は東高円寺練習で、他の日は代々木公園へ。

そして1月16日の金曜から3日間に渡り、ついに「NIKE FREESTYLE CLASH」が東京タワーのふもとに当時あった施設、東京タワーアミューズメントホールにて行われました。

その内容は、まず1Fフロアが初級者向けの「SKILL ZONE」になっており、参加者がフリースタイルの技を練習。その中から元々の経験者や上達した参加者がピックされ2Fフロアへ移動。そこにあるステージで1日数回「FREESTYLE GONG SHOW」が行われ、最終日にTOKYO NO.1を決めるというものでした(FREESTYLE FOOTBALLも同内容を並行して開催)。

イベント開始は金曜の18時からで、その昼間には、クライマックスに披露されるショーケースのリハーサルが行われました。

我々FEB、そしてDJ KENTARO、HIFANA、AFRAなどの日本勢に加え、CM「NIKE BASKETBALL FREESTYLE」に出演していたTRIKZ、Mr. HANDLES、A-TRAINの3人が来日。彼ら3人のショーが余りに素晴らしく、リハを見学していたFEBメンバーはまさにぶっ飛ばされ、ATSUSHIまでもが“俺もフリースタイルやる!”などと思わず叫ぶくらいの興奮状態となっていました。

個人的にも、あの時の衝撃度には、それ以降に進化したあらゆるフリースタイルバスケのショーでも敵いませんね。

なぜパフォーマンスを一切やらないATSUSHIが会場にいたのかと言うと、本イベントではFEBクルーが練習生も含め総動員だったからです。当時はほとんどの来場者はフリースタイル初体験だったので、FEBクルーにボール回しや樽回しなどの基礎的な技だけ予め教え込んでおけば、会場のデモフリースタイラーとして配置できたのでした。

1FフロアのDJは自分、MCがAKIさん。
CMで使われていたPharrell Williamsのオリジナルソングが入った、この世に4枚しかないレコードの内の2枚を渡され、大事に針を落としていました。

そしてDJブースから、己もほぼ初心者のくせに、来場者にいっちょ前に教えているATSUSHI、JUN、KUNIO、YOHEIの奮闘ぶりを観察。長時間のイベントでしたが愛想よく一生懸命やっていましたね。

そして練習生は元々フリースタイルをやっていた子が多かったので、ここでは立場が逆転。何人かは上達者が行く2Fのデモフリースタイラーを担当し、そこで大いに存在感を示していたのがTANA。このイベントで、正メンバーからの彼に対する評価がぐっと上がったのでした。

3日間に渡り、何百人とやって来る参加者の皆さま。その中でも目を引く人物が数名おり、休憩時間の控室で彼らを話題にしていましたが、あくまで一般来場者なので細かな素性は不明。しかしそのうちの数名とは、間もなくして別の場所で再会することとなります。

一方、素性がよく分かる参加者も登場。福岡に帰っていたU-LAWがTOKYO NO.1を奪い獲りに、再び東京へやって来ました。
久々のU-LAWに盛り上がる我々。もちろん早々に2Fへ上がり、GONG SHOWへ出場です。即座に観客と3人の外国人フリースタイラーの心を鷲掴みにし、TOKYO NO.1の大本命でしたが、そこにライバル現る。

ATSUSHIのアメリカ時代に、同じ家で生活していた稲垣敦です。

同じアツシなので、身長の低めな敦は“ちびアツシ”なんて失礼な呼び名が付けられ、そのうち“ちびアツ”と略されるはめになります。しかしバスケの実力も身体能力もとんでもなく高く、日本に帰ってきている期間はJ-WALK同様、東高円寺練習で共に切磋琢磨することになるのでした。

そして結果的には、最後にバク宙を決めてパフォーマンスを終えた稲垣敦が優勝。TOKYO NO.1は彼に決定。

そして翌週にはOSAKA NO.1を決めるべく、ZEPP OSAKAにて開催です。

長くタフな3日間でしたが、早くも昨年の全てのイベントを超える場を経験。幸先の良いスタートが切れました。

余談も色々ありますが、例えば控室で弁当に飽きた誰かが、“マックが食べたい”などとわがままを口走っていると、その30分後にハンバーガーが50個くらいテーブルの上に積み上げられ、NIKEパワーにまたしても圧倒されましたね。

そして全てが終わって疲れ果てた帰り道。解散時の挨拶で軽く缶ビールで乾杯していたATSUSHI、COHEY、自分の3名は、シラフのYONEの車へ。

駐車場を出た目の前の道が一方通行で、間違って逆走しかけてすぐに方向転換。そこにすかさずパトカーがやってきて、車内を調査。何もありませんねと終わりかけた寸前に、ドアポケットから大量の違反切符がご挨拶。唖然とする助手席の自分。そのままみんなで麻布警察署へGO。

奥へ連れて行かれるYONE。どうしてこうなったと頭を抱える3人。そして身元引受人のようなかたちで、モヒカン頭にエクステを巻いたAJがハイテンションで登場。一瞬緊張が走る署内。奥に行くAJ。10分後、呆れた表情の警察官の方々から、“今日はもう帰ってよし”と無事解放。

結局、自分が家に着いたのは明け方となったのでした。

そして翌週の大阪。自分の相棒となるMCは、AKIさんに代ってJIROさんでしたね。今回のSKILL ZONEは屋外でしたが、あいにくの天候だったので大きなテントを設置してその中で行っていました。そうすると、たまたま近くでLIVEのあったCHRISが突然見参。

当時、CHRISはラッパーとしてReebokと契約し、Jay-Zのシグネチャーシューズ「S. Carter Collection」のプロモーションを行っていたため、FEBのNIKE関連の仕事には基本不参加。しかしここでは一般参加者として全身Reebokで登場。アウェーな空気を感じたのか、若干殺気立っていましたね。すぐにGONG SHOWに出場して健闘するも、優勝には届かず。

そしてOSAKA NO.1になったのは、まさに執念、大阪にもやって来たU-LAWだったのでした。

東京と大阪、そしてReebokから麻布警察署まで巻き込んだ、この壮大なイベントを境に、バスケットボールを使ってパフォーマンスすることは「FREESTYLE BASKETBALL」と日本中で呼ばれるようになりました。

そして2002年に我々が勝手に名付けていた「BALL ROCKIN'」という呼称は、その役目を終えたのでした。

つづく

前回

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