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私とラジオ(1)

きっかけ

 元々、父親が電気関係の仕事だったので小さなころから電気には興味を持っていて、ある時に新聞に載っていたLEDで工作する記事を見て、電子工作の世界へハマる。
詳しくは、電子工作のくだりで書いたのでそちらを。

 最初のゲルマニウムラジオから、2石ストレート→4石ストレート→6石スーパーヘテロダインへとステップアップ。自分だけのラジオが手に入ってからは、夜寝るときに聴きながら、というのが日課に。友達にも布教(?)したりして、周りのラジオ仲間を着実に増やした。
 やがて、地元のラジオ番組に熱心にはがきを投稿するようになる。
いわゆるハガキ職人というやつ。

人生を変えた映画

 その頃、湘南を舞台にしたミニFM局が描かれた映画「波の数だけ抱きしめて」がテレビで放送された。織田裕二・中山美穂・松下由樹・別所哲也・阪田マサノブ(敬称略)、今考えたらとてもすごいキャストだ。


VHSで録画したテープを、本当に擦り切れるようになるまで、何度も何度も見返した。とにかく、めちゃくちゃハマった。中学生ながら、あのどこまでも放送エリアを伸ばせる中継局の仕組みを、必死で研究していたw
 そしていつしか、自分でもラジオ局を作りたいなと思うように。

 さらには、民放FM局という存在を知り(※1999年に県域民放局のFM岡山が開局するまで、岡山は民放FM後発県だった)
FM香川・FM山陰(V-air)・Kiss-FM等々を遠距離受信するのにハマり、
自分でラジオ番組もどきを作ってテープに録音したり、
架空の局の番組表を妄想して手書きで作ったりしていた中学時代。

 高専に入ってからは、アマチュア無線部へ。
文化祭の部活展示で、ミニFM局をやるのが毎年の楽しみだった。

 いかに合法的にどれだけエリアを広げられるか(※ミニFMは微弱電波なので出力を大きくできない。せいぜい半径30m程度)ということが、毎回の課題。親友たちや後輩をも巻き込んで、かなり色々とやった。

 だが、ラジオはあくまで趣味。好きを仕事にするのは避けた。

 それは、好きで始めた仕事が辛くなった時、同時にその好きなことまでを好きで無くなってしまうことが嫌だったから。
自分でラジオ局を作りたいなあ、というのは夢の話として心に仕舞い込んで、ラジオとは無縁の製造業に就く。

転機、夢が叶ってしまった

 転機は突然訪れた。社会人になって10年弱の頃、ネットを見ていてたまたま、地元にコミュニティFM局を作ろうと活動している有志がいると知り、さっそくそこに加わる。

 初日、スタジオ見学に行っのは、4月になってすぐの桜の時期。
この後、鶴山公園でお花見するので一緒にどうですか?と誘われ、初対面の人ばかりの中に混じってお花見をした。
人見知り全開で何も話すことが無く、たいそう困っていたら突然天気が悪くなり、通り雨が降ってきた。敷いていたブルーシートをみんなで頭の上に持ち上げて雨宿りした。
えらい目に会ったな~と、初日にして強烈な思い出。

 その後、街中のイベント会場で放送をやったり、クリスマスとか夏祭りとか、いろんな人と放送の「真似事」のような遊びを続けていくことになる。

 2009年春、いよいよコミュニティFM開局の免許申請を提出。夏に予備免許が交付され、試験放送が始まった。個人的にはその頃、2回の試験で第二級陸上無線技術士の無線従事者資格を取得。

 開局日は12月24日のクリスマスイヴと決まった。
サンタクロースが世界中の子供たちにプレゼントを届けるように、この新しいラジオ局はエリア内の人たちに音声というプレゼントを届けるのだ。
と、いう理由だったわけではないが、12月にはサービス放送(通常番組と同じ流れの放送)をスタートさせた。

 正直、このころの記憶はかなり曖昧だ。
いつ何があったか、殆ど覚えていない。会社の仕事もしながら、夜の時間や休みをFMに費やして、とにかく忙しかった。

 はたまたいろいろ紆余曲折があり、あんな小さな街に2局もコミュニティFM局が開局する!!という全国でも異例の事態になったが(※結局、もう1局は半年後の2010年に開局したが、2020年に閉局)
ともかく、こうして小学生からの夢が実現した。

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