意外と知られていないSFの多様性 『新しい世界を生きるための14のSF』書評
アンソロジーというのはどうも読み終えるのが遅くなってしまっていけない。
一つ一つが独立した短編であるため手に取りやすいという利点はもちろんある。しかし、一つ一つが独立しているがゆえに連続して手に取る必要がないというのもまた事実だ。すると、元来読書好きとは言えない私の心には隙有りとばかりにオブローモフ気質が入り込んで、これをしばしば中断させてしまうようである。まったく困ったものだ。
私の記憶が正しければ『新しい世界を生きるための14のSF』に手をつけたのは去年の八月ごろだった。いくら800ページを超える大著とはいえ、いやに時間をかけたものだなと自身に憫笑のひとつでも投げかけてやりたい気持ちがする。
このようなわけで、本書に編入されている14の物語の中にはかなり以前に読んだものも含まれるので、書評を書くのもいささか難しかろうと半ば途中で投げ捨てるつもりで本記事を書き始めた。
しかしいざ文章をしたためてみると、実は記憶に印象深く刻まれている作品がいくつかあって、意外にも書くことが湧いてくるのには驚かされた。
そんなわけで今回は、14のSFを編み上げた大著から私なりの4つをピックアップし、本書が如何にSFの世界の面白さと多様さを称えているかについて言及していこうと思うので、お付き合いいただけると幸いだ。
なお、本記事は章立て一つ一つがアンソロジーの如く独立しているため、時間がないという方は1~4のどれかと、5、6を読んでいただければそれで全く構わない。また同様に、今ここで「くだらない記事だ」とブラウザバックしていただくのもやはり一向に構わないというわけだ。
1.SFが引き出すあり得ない共感
まず私が初めに取り上げるのが斜線堂有紀著の『回樹』だ。
これは女性同士の恋愛、俗に百合などと呼ばれる関係を主軸に据えた作品で、その人間ドラマの描かれ方が繊細でいて強烈な点が読者の目を引く一作だ。
二人の出会いにはじまり、甘酸っぱい蜜月関係、そして読み手にも伝わる倦怠期のもの憂さ。これらが非常にコンパクトでありながらも緻密にまとめあげられているのはひとえに著者の文才によるものだろう。
しかし、短編小説において読み手に感情移入を促そうというのは相当に困難を極める所業である。
例えば『回樹』のように恋愛について書く場合なら、一歩間違えると「あなたを愛しているわ」「あぁ、僕も君を愛しているよ」などと言ってかけおちする――みたいなストーリーと同レベルの、見るもおぞましいメロドラマが爆誕してしまう。
ところが『回樹』はその微妙な平均台を見事に渡り切るばかりか、最後にはちょっとした〝奇妙な共感〟まで覚えさせられるのが非常に魅惑的なのである。
ではその〝奇妙な共感〟とは一体なんであるか――という話になるが、しかしちょっとここでとある重要な忘れ物をしていることに気づきたい。
なんといって、今日紹介しているのはSFのアンソロジーなのである。一体『回樹』のどこにSF要素があるのかという話はしておかねばなるまい。そしてこれに答えるには、タイトルである回樹が何たるかを明かすのが近道だ。
「おい、第一の性質をすっ飛ばすなよ」というそこのあなた。慌ててはいけない。それは第二の性質からして火を見るよりも明らかだ。そう、そのとおり。つまり回樹は人の死体を飲み込むという第一の性質と、その死体への愛を引き継ぐという第二の性質を擁した得体の知れない物体なのである。
して、このような性質を持つ物体の登場が何を引き起こすかというと、それは〝墓標の完全上位互換の登場〟とでも形容できる事態である。要するに、人々は愛する人の死体を回樹へと飲み込ませ、その人への愛を永遠のものとしようとするのだ。およそ人間の義理人情からいって必然ともとれる行動である。
一方で、回樹は愛されていない人を飲み込んだ場合には第二の性質を示すことはない。つまり、回樹はある意味で飲み込まれた者への愛の判定装置にもなっているわけである。
さて、ここで冒頭の二人だ。二人は最初こそ甘酸っぱい恋路を謳歌するわけだが、世間一般のそれがだいたいそうであるように、倦怠期を経て徐々に愛情の縺れを呈するようになってくる。私は本当に彼女のことを愛しているのだろうか――そういう不安に襲われるようになるわけだ。そんな中で一方が事故で夭逝する。さて、何が起こるだろうか。
たしかに『回樹』は人間劇に傾注しているところが大きいので、SF色は幾分薄い。しかし、回樹という人間の愛を判定する存在が、語り部である主人公の絶妙にサイコチックな性格に、ある種の合理性と一縷の共感さえ感じさせる点において、他の怖いもの見たさ的なサイコ作品とは一線を画すものがある。
本書を手に取った折には是非、このサイコチックな主人公への〝奇妙な共感〟を楽しんでいただきたい。
2.読者よ汝、探偵たれ
主人公は自身が奉公している屋敷に盗人が入るのを目撃した。あまりに時宜を得た闖入と迷いのない足取りはその盗人に誰かの手引きがあったことを窺わせる。そしてその向かおうとする先にはその家の娘がいた。止めなければと思う。そう思おうとする。けれど主人公は気づいてしまう。それは私の望みなのだと――。
このような具合に読者の食指を一気にその背後にある事情へと向かわせる素晴らしい冒頭数ページを有するのが、芦沢央著『九月某日の誓い』である。
物語は眼に病を患い、科学者としての道を断たれ、自死を選んだ父を持つ主人公の久美子が、その縁故からとある屋敷へ奉公することになり、その家の娘である操様と出会うというところから始まる。
ガール・ミーツ・ガール、また百合かこの特殊性癖の色ボケがと思われるかもしれないが、まぁ落ち着いていただきたい。
けだしこの作品も『回樹』同様に序盤は甚だSF味にかける作品ではある。しかし『回樹』とは違って後半から勃然と吹き出すSF味は、SFに飢えた読者の舌を十分に楽しませてくれるはずなのだ。
そのSFへ至る道への端緒を開くのが、久美子と操様が野犬に襲われるシーンである。山で主人とはぐれてしまった二人が、あわや獣の餌になろうかという時、突如として奇妙なことが起こる。その野犬が何の予兆もなく死ぬのである。外傷はない。ただ口から長い舌と唾液を垂らし、ぴくりともしなくなったのだ。
これを皮切りに、物語は純文学からミステリー調へと毛色を変えていく。
あるとき、自業自得で解雇された屋敷の使用人の一人が逆上して、操様への報復を試みようとする事件が発生する。しかしこの時もまた、あの獣の時と同様にその元使用人が突如として奇怪な死を遂げてしまうのだ。
この一連の奇怪な現象は、何かしらの超常現象を思わせるには十分だった。状況から鑑みて、操様が何らかの不思議な力を持っていると考えるようになった久美子は次第に自分のことを慕ってくれる彼女に――いや、慕うどころか束縛までし始めるようになった彼女に徐々に恐怖を抱き始め、ついにはこの状況から解放されたいと願うようになる。
こうした事情を知らされた上で再び冒頭の盗人の話へと戻ってくるとき、そこで発生する事件はこれまでのすべての事象を一息にひっつめて、筋の通ったある一つの結論へと読者を導く。当然、読者はそのカタルシスを感ぜずにはいられない。
なお、ここでは不必要な暗示を与えないように諸種の重要な情報はあえて伏せさせていただいた。だがもし科学捜査官気質の読者がこれを注意深く精読したならば、きっとそのからくりに気づくこともできるだろう。
また、最後にちょっとだけ言及しておきたいのが『九月某日の誓い』というタイトルについてだ。なにせ、この小説には「九月」と明記される部分がないのだからおもしろい。
これについては読者が科学捜査官であることを要求するものではないため
、是非皆様もこのタイトルがいつを指すのかを考えながら読んでみていただきたい。読者が諸種の真実に辿り着こうとすればするほど、この物語は何倍にもその面白みを増してくれることだろう。
3.驚安の殿堂は世界を滅ぼす
あまりに露骨なパロディが開幕早々読者の頬を緩ませるのは天沢時生著『ショッピング・エクスプロージョン』だ。
舞台は自己増殖する店「TERAサンチョ」に飲み込まれゆくアメリカ合衆国のハリウッド。人々はテンガロンハットをかぶったイワトビペンギンのマスコット「サンペン」が統べるディスカウントショップの中へ万引きに入り、生き残る道を模索していた。
ふむ。「TERA」といえば「MEGA」と同じ補助単位の一つだし、そういえば「サンチョ」は『ドン・キホーテ』の登場人物だったか。はてさて、どうも私たちはこのお店を知っているような気がする。
そしてそんな既視感の拭えない店を背景にしたハリウッドで躍動する登場人物たち。しかしこっちはこっちでそのセリフがなんだか妙に芝居がかっていてどうもむず痒い。いくつか例を挙げてみよう。
「このストリートはデンジャーだぜ」「Yoマイメン」「繊細な少年」「バッチバチの一級故買品さ」「気分はどうかね、我が宝地図」エトセトラエトセトラ。
いちいちセリフが鼻についていけねぇな? ベイベー。
……。
これは失敬。
だがこのなんちゃってハリウッド映画的な気障っぷりが全面的に肯定されるのがこの小説なのだ。気取り屋たちとパロディで充溢された世界が醸し出す空気は、まるでこれは小説ではなくアメコミなのではあるまいかという錯覚まで喚起するほどに凄まじい。
俗っぽいけばけばしさや古臭さ、安っぽさなどをあえて取り入れていく美意識の在り方をキッチュと言ったりするが、この小説はまさに文学におけるキッチュの具現とも言えそうだ。両極は相通ず、とはよくいうが、俗っぽさもいくところまでいくとそれは振り切って、逆に面白みを演出するようになるのだなと本作には感心させられてしまう。
少年がトランスフォーマーの玩具を手にするところから始まるワタナベの大秘宝への大冒険。アメコミを読むノリで読み始めてみてはいかがだろうか。
4.人間の想像力と創造性の欠如について
バイオハザードと聞くと、私たちはとかく遺伝子操作によって生まれた怪物だとか、致死の感染症だとか、ゾンビだとか――だいたいこういったものを想像すると思う。
これらはけだし人間への脅威ではあろうが、しかし多種多様に見えるそれらの脅威も、結局のところは人間への〝直接的〟脅威であるという点において性質上の違いを見出せないところには一考の余地があるように思われる。
さて、私がここに最後にピックアップするのは坂永雄一著『無脊椎動物の想像力と創造性について』だ。
この作品は一言で言えば、クモによって世界が滅ぼされるストーリーだ、と随分簡潔にまとめることができる。しかし、ここで声を大にしておかねばならないあまりに重要なことが一つある。
それは、この作品に登場するクモがただのクモであるという点だ。地球防衛軍に登場するような巨大グモでもなければ、スパイダーマンを誕生させ得る超自然的能力を有したクモでもない。ごくありふれた、至って普通の、私たちのよく知る、あのなんでもないクモなのである。
「いやいやいや。ちょっと大言壮語が過ぎるでしょ。なぜ人間様があんな卑小な存在に滅ぼされるというんだい?」
おそらく、そんな風に思った方もいるだろう。
しかしそんな方々に私は是非とも言わせていただきたい。あなた方はクモよりも「想像力と創造性」が欠如している――と。
怒らないでいただきたいのだが、その根拠はここでは明かせない。なぜといって、ここでクモの「想像力と創造性」について書いてしまうとそれは本編の主題を奪うことになりかねないし、だいたい物語の中で実際にクモの生態に触れない限り、クモの「想像力と創造性」の豊かさというのははいっこうに伝わらないだろうと思われるのだ。
その代わりに、私は先に述べた驚異の質なるものについての議論を今一度ここで展開したい。
私達のよく知るあのクモは怪獣やウイルス、ゾンビなどとは違い、私たちを〝直接的〟に脅かすことはまずない。だがもしこれが一斉に大量繁殖し、街中のいたるところに幾重にも幾重にも糸を張り巡らせたら――と考えるとどうだろう?
実はクモの糸というのは世にも稀な強靭な素材であり、これを模した素材が実際に開発されたりもしている(もっとも、このことは小説には書かれていないのだが)。そんな素材が道路を縦横無尽に駆け巡ったと想像すれば、その生活環境の激変ぶりは、いたるところに白い壁が生成されるのと同義だと言って差し支えないだろう。人の行き来は妨げられ、物流は途絶える。生活の場はクモの糸に侵略され、インフラは崩壊する。これこそがクモの〝間接的〟脅威である。
この世に世界終末を描く作品は五万とあるが、この作品が描く〝間接的〟脅威による世界終末を目の当たりにすると、読者はなんと人間の「想像力と創造性」が乏しいかを――つまり、世の世界終末を描く作品がいかに紋切型であるかを知ることになる。つまり、たとえ外連味が欲しいという潜在的理由があるにせよ、〝直接的〟脅威によって滅びた世界を描く作品があまりに支配的すぎるという事実に、読者は疑問を禁じえなくなってしまうのだ。
こうなってくると、この作品はクモの「想像力と創造性」なるものに言及しながら、世に出回る作品の「想像力と創造性」の欠如を訴えているのかもしれないとさえ思わされる。もう少し平明に言えば、「お前らはクモ以下だ」と言われているような気さえしてくるのだ。だからもし今後、私がクモの巣に向かって手を合わせているのを目撃したとしても、どうか笑わないでいただきたい。
また、この作品だけが14作品のなかで唯一参考文献を明示していたということは特筆しておくべきことのように思われる。やはり「想像力と創造性」は良質なインプットの上にこそ成り立つものなのであろう。
5.編纂者への苦言
さて、ここまできてから腰を折るような話をするのも大変心苦しいわけなのだが、実は私は本書の編纂者に二つほど物申したいことがある。
一つ。コラムが面白くない。
たしかに序文で「日本SF作品ガイドとしての体裁をとったコラムだ」という趣旨は述べられていたし、入手が容易なものかつ現代に近いものを選んで紹介したというその努力は素晴らしいと思う。素晴らしいとは思う――のだが、このコラムが読者にとって「次はこの作品にしよう!」と他の作品に導かれるに足るものになっているかと問われると、これは甚だ疑問である。
もちろんこれは個人の意見に外ならないが、私ならひたすらに作品名を羅列したような文章よりは、たとえ紹介する作品数が大幅に減じたとしても、本書に編入した作品に近い作風のものをいくつか取り上げ、それらのあらすじや見どころについて紹介した文章の方がずっと読みたいと思ってしまうところだ。
二つ。解説がない。
私自身乱読の身なので決してSF通とは言えないが、しかしSFの楽しみの一つは、やはりその解説を作者以外の識者が巻末に付している点にあるのではないかと思っている。
なぜかといって、解説というのは識者が凡夫の知及ばぬところの情報をうまく織り交ぜながら独自の見解を披露してくれる場であるため、「あぁ、なるほど」とか、「ほう、そういう視点もあるのか」と唸らされることが非常に多いのである。そしてまた、ここから興味の輪が広がるということも私の経験から推しはかれば少なくないと思われるのだ。
以上二点が私から編纂者に呈する苦言である。編纂者の「SFをもっと広めたい」という熱は本物であるように感じられるが、茫漠たるSF作品の大海を見せられたところで、読者は途方に暮れてしまうのが関の山だ。
たとえば歴史というもののおもしろさを誰かに伝えようとしたとき、ただ年表を渡しただけではこのおもしろさはちっとも伝わらないだろう。しかし、ある一つの事件、あるいはある一人の人物にフォーカスを当て、これについて語ったのだとしたら、ただ年表を渡すよりは多少興味をもってくれる人が増えるはずである。
私はSFもこれと同じではないだろうかと思うわけだ。
6.アンソロジーの良さ
さて、今回は14の短編を編んだ大著の中から私の印象に残った4つの作品をピックアップして紹介してきた。もちろんこれ以外にも言及したい作品はいくつかあったし、ピックアップしたものに関してもあまり文章が長くなり過ぎないように意識したので、その魅力を十分に伝えきれていないところがある。
しかしここまで見てきた4作品を見てもわかるように、その面白さはどれも多種多様だ。今回は紹介しなかったが、中には熊がしゃべるファンタジーな世界が平然と展開されていたり、もっと進んで「これSF?」みたいなものまであったりする。
SFと十把一絡げに言ってはみても、そこには十二分に――いや、十四分に多様な世界が広がっているのが本書を読めばわかるだろう。
また、アンソロジーの良さというのは玉石混交にある。
誰にとっても玉があり、石がある。その区別の仕方は人それぞれだが、全ての作品に対する評価を平均したとき、ある一定程度の読書体験が保証されるのがアンソロジーというものなのだ。
だからアンソロジーというものは案外買っておいて損はない代物だ。もし、SFというものの敷居の高さに尻込みしているような人があれば、ひとまずこの『新しい世界を生きるための14のSF』を買って本棚に入れておくことをオススメしたい。
なんといって、ページ数の割に安いというのはなによりも重要なことなのである。
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