サブマリン・メンタル
時はなんと既に6月、すっかり暖かくなった…。
半袖の登板が増え、年間20勝ペースだ。
明かりには大量のカメムシが群がり、
ドブ川の上では羽虫どもがランデブーである。
孤独な俺への当てつけだろうか。
兎にも角にも時の流れが異様に速い。
加齢をヒシヒシ感じるところである。
俺の心は相変わらずカサカサの冷え冷えである。
毎日一時も気分は晴れず、ひたすらクソを全身で感じる叙情的エブリデイだ。
大切な友人(多分一方的にそう思ってただけ)から、いわゆる新興宗教の道に進むことを告げられ、絶縁を言い渡されたあの時、俺の全ては本当にどうでもよくなった。以降2ヶ月ずっとこの調子だ。果たしていつ良くなるのだろう?
信仰と交友関係とを天秤にかけ、一方を容赦なく切り捨てた友人は俺的にクソであるし、こうなるに至った様々な考えを半ば無視して止めようとした自分もまた、同じぐらいにクソである。
人はどこまでも自己の欲求に従うだけである。
善も悪も、結局どちらが当人の感性からして心地いかであろう。あらゆる感情や関係の本質はエゴだ。全てはこの巧妙な言い換えでしかない。
道徳的な正誤なども全てエゴによる。
所詮その時の欲求、観測する者の感性と情緒により、簡単に揺らぐものである。
そもそも正しさも誤りなんてものも、本来存在しない。あらゆる常識なども本来存在しない。
こんなものは人が勝手に線を引き、そうだと決めつけたものの一部でしかない。
そう決めつけた世界の方が、線を引いたその人的に「心地よい世界」だと思ったからであろう。
常識も法律も、たまたま近い感性の人が、偶然集まっていたから成立したもの、あるいは集団のリーダーが心地よいからと言う理由で刷り込み、操作した結果なのかも知れない。宗教だってどうせ似たような起こりであろう。本来何もないのである。
従って、我々が認識するこの世などは、所詮感性や情緒の山に過ぎない。俺は、エゴの数だけ勝手な世界が乱立しているのだと思った。人間のあいだに絶えず対立が起こり、全く全然分かり合えず、どこまでもめんどくさい理由の全てではなかろうか。持論だけども。
しかし、だからこそ、この感性と情緒の山について考え、知らねばならない。本質とか正しさとかはどうでもいい、その乱雑な流れの一つ一つを感じ取り、切り開けない限りは、決して俺は先のステージには進めないと痛感した。
様々な情緒を、感性を俺は知らなければならない。捉えなければならない。
納得する日まで、きっとクソであろう。
そして、この探求には終わりがない。
だからクソなのだ…。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?