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銭湯で同級生に遭う。

出身地・鹿児島は火山国なので、街の銭湯=(イコール)温泉でした。上京して初めて煙突のある銭湯に行って、「朝風呂やってないんや。」と驚いたものです。

小学校に入る時から住み始めた国道3号線沿いの安アパートの近くにも銭湯があって、小学生とかは当時60円とかで入れたので、子供だけでもよく行ったものでした。

煙突のある銭湯と比べると、2階に御休み処もあったりして、よりゆっくりできる感じ。でも当時はそれが当たり前だったから、家風呂が壊れたりした時にいく「お風呂屋さん」として気軽に利用していた。小学生には温泉の効能とかありがたみが、よくわからないからね。

住んでいた安アパートにも風呂は付いていたけれど、いわゆる外釜式。風呂を沸かす時には、玄関から一旦外に出て(「バランス釜」ですらない)、通路側にあるガス釜の〈1〉のレバーをガチャっと右に回して5秒ほどチチチチチッと点火して、種火が点いたら〈2〉のレバーを回してブワッと火を大きくするという旧式のものだった。

風が強い日とかに子どもが操作するには危険だし、冬場は種火も点きにくくて寒い中でいくらレバーをガチャガチャやってもなかなか点火しないということもよくありました。ガスもプロパンガスだったし、釜も壊れやすかった。

なので、たまに帰ってくる「うちの親父」は特に短気なので、ちょっと火が点きにくいと言うと、「もうよか! 風呂屋に行っど!」となることも多かった。

歩いて5分ぐらいの所にたまたま「○○温泉」という風呂屋があって(いくら銭湯=温泉とはいえ、東京の銭湯のようにあちこちにあるわけではなく、たいていは車でわざわざ行くような距離に点在している)、そこに親父と二人で風呂入りに行くのが楽しみでもありました。


小学2年ぐらいの頃に、たまたま親父とその風呂屋で入浴中に、クラスは違うけどほぼ毎朝一緒に登校していた、近所に住むフクナガ君に会った。

同じく国道3号線沿いで、うちから数百メートルぐらいの所に住まいがあったフクナガ君は、よく寝坊しがちで、毎朝のように自分が呼びに立ち寄るのだが、「今トイレ入ってるから、ちょっと待ってて〜。」とか言われて玄関先で待たされることもしばしば。急がないと間に合わなくなって、二人で学校まで走って向かうこともあった。

そのフクナガ君も同じ風呂屋に来ていて、子どもどうしで来ることもあったから特にびっくりするようなことでもない。「やあ、来てたんだ。」ぐらいの感じ。

ただ、その時いつもと違ったのは、彼もお父さんと一緒に来ていたってこと。

小2の自分からしたら、「あ、フクナガのおじちゃんだ。」ぐらいにしか思っていなかったのだが、会った瞬間になんか察知した違和感。それは…

「おう。もう出るぞ。」みたいな感じでちょうど湯船から立ち上がって出て来た、うちの親父をフクナガ君のお父さんが見て、一瞬たじろいだんだと思う。

そりゃ、カラフルなモンモンが入った明らかに堅気じゃない人が、自分の息子の友達の父親だと知ったら、さぞ動揺したでしょう。

…その時の様子は、「今思えばそういうことだったのか。」と思い返されているだけで、当時その場ではっきりとした違和感を感じていたわけではない。

でもおそらくその日以降でしょう。朝、いつものようにフクナガ君ちに寄って「行くよ〜。」と声掛けても、「もうちょっと時間かかりそうだから、先行ってて〜。」と言われることが多くなっていった。

それまでは「いいよ。全然、待ってるよ。」とかで玄関先で待っていると、おばちゃんがヤクルトくれたりして「悪いわね。いつも待たせて。(フクナガ君に)ほら、さっさとしなさい。待ってもらってるんだから。」みたいな感じだったので、「先に行ってて。」と言われる日が続いて、「あれ?」と多少は感じていたのかもしれない。

多分それからそんなに経たないうちに、「もううちに寄ってくれないくていいよ。」みたいなことを言われたんだと思う。一緒に学校に行くことはなくなった。

それでもその時はどういうことなのか判っていなかったと思う。「いつも待たせて悪いと遠慮しちゃったのかな。」ぐらいに思っていた。その後、フクナガ君とはクラスも同じになることがなかったので、自然に疎遠になった。

思い返せば、当時よく遊んでいた近所の同学年の子たちとは、小学3年生ぐらいからパッタリと一緒に遊ぶことは無くなっていったようだ。うちから100メートルぐらいの所にある公園でよく会っていた、シモンもオバンも…いつの間にか友達付き合いなくなってったもんな。

何も銭湯で会ったその日を境に、うちの父親がヤクザだということが学校中に広まったわけではない。フクナガ君が言いふらしたとも思っていない。

だが、おそらく「もう、あの子と遊ぶのはやめなさい。」というようなことは親から言われていただろうし、それは他の友達にも同様にあったことだったんだろうなと思う。

きっと、狭い田舎町だから「3号線沿いの外車が停まっちょるアパートに住んどるあん人は堅気じゃなかよ。」「なんか小学生ぐらいの息子がおるらしいが。」ということは、たいがいの近所の人が知っていたんでしょう。

ただ、小2ぐらいまでは自分もまだ無邪気だったので、人からどう見られているかという自意識がそこまで強く働いていなくて、その頃からだんだん自分で気付くようになってきたというだけのことだ。

人生50年、小さい頃からずっと自意識過剰で苦しんできたな…と自己分析していたつもりだったが、細かい記憶を呼び起こしていくと、意外と幼い頃の鈍感力で傷つかずに済んでいたところが多かったんだな、とわかって少し安心したりもします。

家庭での日常は地獄だったが、こと学校生活ということに関しては、いじめられたとか無視されたとかいう嫌な思い出はほとんど無いもんな。

まあ、それでも親父がヤクザだということで、肩身の狭い思いをすることはその後もたびたびあるわけだけれども…。

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