ラム肉食べ放題の話。
地元では有名な「焼肉なべしま」というチェーン店があって、今では鹿児島以外の九州各地に展開しているらしい。
自分が小学生の頃、1980年代にはまだそんなに店舗数は多くなかったはずだが、鹿児島市のウォーターフロント(笑)・与次郎ヶ浜に大きな店を構えていたと記憶している。
とにかくテレビCMの印象が強くて、外食で焼肉といえば「なべしま」がパッと思い浮かぶくらいに刷り込まれていた。
それは子どもでもついつい口ずさみたくなる、ポップなCMソングのおかげだ。
「おいしさハートにビビンバきたよ!」という歌い出しで始まるCMソングは、歌詞に焼肉がらみのダジャレがふんだんに散りばめられていて、「なべしまほんとにいいキムチ(気持ち)〜。」というフレーズもあるので、いやでも店名を覚えてしまうのだった。
そんな昔から地元に根付いている有名焼肉チェーンだが、自分はそこに食べに行ったことはたった一度しかない。
それはもちろん当時ド貧乏だったからで、普段の食事もままならない暮らしぶりだったので、ましてや外食で焼肉なんてとてもとても。
ところがそんなある日、新聞の折り込みチラシの中に、「焼肉なべしま」のフェア開催中を宣伝する1枚が入っていたことがあった。
そこには赤い太字でこう書かれてあった。
「ラム肉食べ放題500円!」
当時一緒に暮らしていた、自分の育ての母親にあたる人には、日頃から嫌味を言われ罵倒され、用事を言いつけられ、かなり不自由な思いをさせられていた。
子どもながらに、彼女の陰湿な性格がどうしても好きになれず、育ててもらっているという感謝の念を抱けずにいた。
では、その育ての母親は自分に対して全く愛情が無かったのかといえば、そんなことはなかったのだろう。
本人的には実の我が子同然に可愛がったつもりだったと思う。
可愛いがゆえに厳しく躾けようとして、度が過ぎてしまっていたのかもしれない。今となればそう思うこともできる。
まあ、ヤクザな男に惚れて、その連れ子を自分が育てようと決意するぐらいなのだから、情念の深い人であったことは確かだ。
「オマエのせいで私の人生台無しだ。」的な罵倒をさんざん繰り返したかと思うと、急に過保護になり「あんたを育てあげるためには、どんな苦労も厭わない。」的な執着を見せる。
その「焼肉なべしま」のチラシを見た時には、こう思ったのだろう。
「普段はあまりいい物を食べさせてやれていないが、この子にたまにはお肉をお腹いっぱい食べさせてあげたい!」と。
たまたま機嫌が良い日だったのか、ある日彼女(育ての母)は自分を連れて街に出る。
わざわざ遠出しての外食だ。しかもテレビCMでおなじみの、憧れの「焼肉なべしま」だ。
手には「ラム肉食べ放題」のチラシを握りしめている。
小学生の自分には「ラム」が肉の種類なのか何かもわかっていない。ただ連れて来られるがままに一緒に入店した。
店員に「このチラシを見て来たんですけど。」と言う育ての母。「食べ放題ってことは、いくらおかわりしてもいいんですよね。」と。
「どうぞ。何皿でもお好きなだけ。ラム肉なら。」と店員。「で、ご注文は?」と。
「いや。だから、この食べ放題を二人分。」と、育ての母。
そのやり取りを聞いていて、少し不安になり始めた小3の自分。周りのテープルを見回す。
家族連れが鉄板を囲んで、肉や野菜を焼いている。それを見ても、その時は気付いていなかった。外で焼肉食べることなんてほとんど初めてだもの。
…今ならわかる。「ラム肉食べ放題」はオプションなのだ、と。
普通にカルビとかロースとかを食べて、「ラムって羊なんだ。へー、食べてみようか。」となったら追加するためのメニュー。
それのみを注文する客なんて、いない。
店員が失笑するようなことはなかったと思うが、注文を取った時に微妙な空気が流れたような気がする。
果たして、育ての母はそれを承知で「ラム肉食べ放題」のみを注文したのか。焼肉屋のマナーを知らなかった可能性もあるし、本当に貧乏過ぎて「500円なら出せる。」と思って恥をしのんでそれしか注文できなかったのかもしれないし、単にケチだから「チラシに『食べ放題』と書いてあるんだから、それだけを食べに来て何が悪い!」と開き直っていたということも大いにありうる。
良かれと思って自分に「どんどん食べなさい。」と、ラム肉のみを焼き続ける母。
「どうも周りのテーブルと食べているものが違うようだ。」と気付いて、なかなか食が進まない自分。
最初のうちは機嫌が良かった母だが、喜んで食べると思っていた子があんまり食べないのに苛立ち始めて、だんだん半ば強要するかのように肉を押し付けてくる。
「せっかく食べ放題なんだから、どんどん食べんね。そんなんじゃ元が取れないがね!」
…みじめだった。恥ずかしかった。
貧乏が恥ずかしかったわけではない。
子どもを喜ばせようとしたつもりが、逆にこんなみじめな思いをさせていることに気付かない目の前の育ての母親の存在が恥ずかしかった。
この人の価値観を植えつけられて、知らず知らずに自分もこんな吝嗇で恥知らずの人間に成長していくのかと思うと恐ろしくもあった。
うちのヤクザな親父には顔の形が変わるぐらい殴られたことも何度もあるし、成長の糧となる教えなど何ひとつ受けてこなかった。
それでも親父のほうが人として好きだったのは、心の底から楽しいと思わせてくれた思い出があるからだ。冗談は面白かったし、いろんな所に連れて行ってくれて笑わせてくれた。本当に欲しかった物をそのタイミングで与えてくれたこともあった。
自分が屈託無く笑えた記憶があれば、それを反芻して、他の悪いところには目をつぶることができる。
「この人といて楽しかったこともある。」と思い返せれば、その人のことを好きになれる。
高校卒業まで女手ひとつで育ててくれた恩義のある育ての母親のことを、どうしても好きになれなかったのには、常に失望させられ続けたからという理由がある。
それは金銭的・物理的な問題があって…ではなく、その狭量な性格によるサーヴィス精神の無さ、デリカシーの無さによってもたらされた失望だった。
残酷な言い方だけど。
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