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中学時代は優等生?

1984年、地元鹿児島市の公立中学校に進学。

通うことになった学校が、たまたま県立大学の代用附属校という扱いで、「附属中」というのは別にちゃんとあるのだが、その予備としてモデル校のような役目を果たす指定校だった。

鹿児島県というところはなぜか教育県ということになっていて、特に我々第二次ベビーブーマーは大学受験者数が最も多かった世代だったということもあって、当時何かと教育に関する会議や参観授業などが多く開かれていた。

中1の時の担任の先生は、みんなに「ニカウ先生」とあだ名を付けられていたくらい真っ黒に日焼けして笑い皺が目立つバレー部顧問の体育教師だった。

中学生に成り立てでまだ浮き足立っていた5月ごろ、早々に県の各中学校の教員たちが授業参観に来るという行事が組まれていて、そのモデル授業を自分のいたクラスで行うことになった。

いずれ背が伸びるだろうからということで大きめの制服を買われ、145cm用の詰襟学生服がブカブカの、まるで「ど根性ガエル」の五郎のようなチビでちんちくりんだった自分だが、甲高いハスキー声でベラベラ喋る「おしゃべりチビ野郎」ぶりが、なぜかニカウ先生の目に留まり、「参観授業はクラス全体でいろんな議題について話し合う会議をやるから、オマエその議長をやれ。」と、いきなり任命された。

ど根性ガエル

単に口が立つから司会進行役はこいつでいいかと思っただけだったのかもしれないが、いちおう段取りを覚え、緊張しながらも当日のその議長役をなんとかこなすと、クラスメイトからも、なんとなく「こいつは先生に一目置かれている、ちょっとデキる奴」という感じで見られるようになった。

小学校までは「誰が勉強ができるか?」なんてことは、ほとんど気にせずに過ごしていられたのだが、中学生からは各学期毎に2回ある中間・期末の定期テストの結果表に、はっきりと成績順位が記されて戻されるようになって、やはり順位を競うということに熱心になるタイプの子というのはいるもので。

最初の中間テスト。いちおう自分なりに試験日前にテスト勉強なるものをやって臨んだつもりだったが、結果は国数英理社その他の総合点での順位はクラスで7位。

自分ではまあまあがんばったなと思っていたのだが、その後日の家庭訪問の時に、ニカウ先生に「もっとデキる奴だと思ったのにがっかりだなあ。」とはっきり言われた。

「そうか。オレはちょっと賢いと思われてんのかな。」と思って、いちおう期待に応えようかと、もう少し集中して試験勉強するようになり、1学期の期末テストではなんとかクラスで2番まで順位を上げることができた。

その時にクラスで1番を獲ったのがMZ君という子で、彼は両親からも期待されていたのか、中1にして学習塾に定期的に通っていて、「塾じゃ、もうこの辺まで習ってる。」とか、なんとなくそれを自慢に思っているようなところがあった。

何が原因だったのか、もう思い出せないが、ある日そのMZ君とちょっとした言い争いになったことがあって、その時に彼が「うるせーな。俺より頭悪いくせに、文句付けんじゃねーよ!」みたいな台詞を言い放ち、明らかにマウントを取ってきたことがあった。

そこで何も言い返せなくなったのは、グウの音も出なかったというより、「ええ〜。そんなこと内心思ってても、はっきり面と向かって言える人がいるんだ……。」とドン引きしたからに他ならない。

それでも「そこまで見下されないとならんかね?」と、どうにも腑に落ちないモヤモヤした感情が残った。

そして、その夏休み。その悔しさをバネに猛勉強……というわけではなかったが、ここでまた自分の妄想が先走って「これで自分がMZ君より成績上位になって、『実はあの時あんなこと言われたんだぜ。』…そんで俺もちょっと本気出してさ〜、とか友達に言えるようになったら面白いよな〜。」ぐらいのことをぼんやりと考えていた。

絶対に1番を獲ってやるという気持ちは無かったのだが、なんとかしてMZ君に言われっぱなしのままではいたくないという思いが強くて、それで勉強を頑張れたのか、2学期の中間テストでは総合でクラス1位になって、2位の彼を黙らせることができたのだった。

MZ君の件はいいきっかけになったのだろう。「このくらい勉強したら1番が獲れるんだな。」というコツのようなものを掴んだようで、不思議なもので、それ以降ではテストで毎回1番を獲れるようになった。

中1コース

クラスでテストの成績がちょっと良いからといって、育ちが悪いし貧乏人だし運動オンチだしというのは変わらなかったわけで、自分としては中学時代にちょっと名を上げたという実感はない。

それでも多分だけど、中学の時の同級生に「中学の時のあいつってどんな奴だった?」と質問したら、自分のことを少しでも知ってるという人だったら、「ああ〜。たしか勉強の出来た子だよね。」という答えが返ってくるんだと思う。

それを決定付けた一件があって、それは中3になって最初の県統一模試みたいなテストの時のこと。

それは今までの各クラスごとの順位が付く学内テストとは異なり、これは同日に県下の中学で一斉に同じ試験を行い、それによって鹿児島県全体の順位が付くという大規模なテストだった。

教育県・鹿児島は、なぜか公立高校に明確なヒエラルキーがあって、県で一番の進学校はここ、2番目はここ、その次は…みたいな、学校のランキングがはっきりしていた。(あくまでも当時は。今はもっと多様化しているんだろうけど。)

なので、各公立高校の定員が500人だとしたら、県の統一テストで500番以内に入っていれば一番の進学校に合格でき、500〜1000番以内なら二番手の進学校に入れるだろうという、合格率の目安もはっきりしていた。

その統一テストの結果が出た日、授業を行っていた数学の先生が「先日の実力テストで、学校内で3番。県では20番になった人がいます。」と、クラス全員の前で自分の名を呼んだのだった。

なんとなくその時のクラスがどよめいた感じを今でも憶えている。

嬉しくなかったわけではなかったが、舞い上がった気分というのも違う。なんか不思議な感覚だった。

その時の自分たちの学年では、その統一テストよりも以前から「うちの学年で一番頭いいのは彼だよね。」と言われている有名人がいて、彼はその時のテストでも当然学年1位で(のちに全国的にも進学校として知られる私立の鹿児島ラ・サール高校に進むのだが)、その次の2番というのも何組の誰々だろうというのは噂されていた。

そこに3番目としてその時無名の自分がいきなり入ってきたので周りが驚いた、その反応の大きさにとまどったというのが、自分の中で強烈な印象を残した。


今となっては、中学の時に勉強ができたとか、そんなことどうでもいい。それをいまだに自慢に思ってるんだとしたら、むしろみっともない。

ただ、当時の自分の状況を考えると、「父親がヒモでヤクザ、血の繋がらない育ての母にいじめぬかれて、暮らしは極貧」の毎日。

そんな中で、たまたま学校の成績が良かったというだけで、不良の道に進まずに済んだ。なんなら、当時の同級生には優等生として記憶されているかもしれない。

いやあ、人生一歩間違ってたらどうなってたか…ということをつくづく実感するのみである。

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