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安アパートにリンカーン・コンチネンタル

数年前、小学校から高校まで同じ学校に通っていた同郷の友人と、卒業以来30年近くぶりに会う機会があった。

共通の友人を介して3人で久しぶりに再会。共に酒を酌み交わし、思い出話に花が咲く。

もう一人の友人は高校からの知り合いだったため、自分の生い立ちの事とかはほとんど知らないはずだったので、小学校からの友人は気を遣ったのか、少し言いにくそうに…。

「あの…今だから聞けるんだけどさ。マルキン(小中学生の頃の自分のあだ名)のお父さんって、反社会勢力だったの?」

…その言いにくそうにしてた様子が可笑しくて、思わず笑っちゃった。

「そう!…そうか。確かに、今時の言い方で言うとそうだわ。俺の親父…反社よ。反社!」

我々が小学生の頃、しかも鹿児島の片田舎で人の噂なんか広まるのはあっという間の狭い世界で育って来てて、絶対当時は「あいつの父ちゃん、ヤクザらしいよ。」「怖いからあんまり関わらないほうがいいよ。」的なことは言っていただろう。

なのに面と向かってなかなか聞くことができなくて、数十年ぶりに会ってようやく長年の懸念が解消された、その友人の気遣いが嬉しいやら照れ臭いやらで。

小学生の頃の同級生とかは、おそらく自分の住まいのことはこう憶えていたはずだ。

「マルキンの家?…ああ、国道3号線沿いの駐車場にデカい外車が斜めに停まってるとこ?…あの2階だよね。」と。

そうです。(何台も車乗り換えてたけど)当時うちの父が乗っていたのは、「リンカーン・コンチネンタル」という、ばかデカいアメ車です。

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(写真は実物ではありません。こんな色のこんな形だったなという記憶を頼りに検索して出てきた画像)

通常の駐車場1台分には停められないから、安アパートの1階の駐車場2台分を占領して、それもケツから斜めに突っ込んで、歩道まではみ出してました。

その、うちのアパートの前の道は、小学校に向かう通学路にもなっていた。

鹿児島というところは御存知のように、桜島の火山灰というのが頻繁に降り注ぐ被災地のような場所で、車なんか積もった灰で真っ白になる。

そのデカいアメ車が歩道にはみ出てる部分に火山灰が積もると、よく行き帰りの小学生たちが灰の積もったボンネットに指で落書きをしたものだった。

それを舌打ちしながら、でっかい羽箒のようなやつでサッサッサ…と灰を払い落としてから車に乗り込む姿を今でも思い出す。


もうとっくに亡くなりましたが、うちの「親父」…と言いながらも、なんか血を分けた親子の実感を伴わない、不思議な関係性だ。

父親にしてみれば、自分が十七歳の時に若気の至りでデキちゃった子だったし、その後塀の中に入ったりで、自分で育てている気もなかっただろうから、「目の前のこれが我が子で、俺はこいつの父なのだ。」という自覚は薄かったのだと思う。

幼い自分にしてみても、「お父さん」と呼んではいるが、その人と自分は見た目も全然似ていないし、そもそもときたま帰ってくる人だったので…(例のばかデカいアメ車で)。

そう。反社…と今でこそ「そっち側の人」だったのだと分かるけど、自分に言わせれば、うちの親父は「ヤクザ」とか「任侠道の人」とか「暴力団組員」とかいった言葉よりも、「ジゴロ」という言葉がよく似合う。

別に庇いだてするわけじゃないけど、あの人に「暴力でのし上がっていくんだ」というつもりは最初は無かったんじゃないかな。

どういう経緯で普通の人の道を外れることになったのか、詳しくは聞いたことがないけれど、おそらく女にモテ過ぎちゃって、まともに働く気が無くなっただけなんだと思う。

髪型は剃り込みの入ったリーゼント風でパーマをあてた前髪を庇(ひさし)のように前に出し、日本人離れした彫りの深い顔。胸には赤い牡丹の花と日本人形の顔のような和彫が全面に入っていたし、小指はあったけど手には金の指輪を複数嵌め、首にかけた18金のネックレスは風呂に入る時も取らない。…いや、完全に田舎ヤクザですやん!

でも、じゃあきちんと「何何組」みたいな事務所に出入りして、取り立てやなんやのシノギをやっていたかというと…(あ、たまにやってたな。テキ屋やらしてる若い衆の見回りとか自分もついていってたわ)、なんかそんな感じでもなかったんだよね。

とにかくオンナを引っ掛けてはそのオンナに食わしてもらう。夜ホステスとかやらして。自分はそのオンナの部屋に転がりこんで、暇さえあれば趣味の魚釣りに出かける毎日だったのよ、あの人は。(くるぶしのあたりに「女命」という文字も彫ってましたw)

だから自分の育ての親となった人とは別に、当然よそにもオンナがいたわけで。普段はそっちに住んでるのね。だから自分にとっては、たまに帰ってくる人だったわけ。金をせびりにきたんだか、飯を食いにきたんだか、「こっちの女もたまには構っといてやらんとな。」と思ったのかどうかは知らないけど。

普段は育ての母親と二人暮らしの自分にとって、その「お父さん」が帰ってくるのが楽しみでしょうがなかった。

自分はそのヤクザでジゴロな男が大好きだったのだ。

キレると女子供容赦無く殴る。育ての母親が滅多打ちにされるのも間近で見ていたし、反抗期の頃なんかは自分も死ぬほど殴られた。「このガキゃぁ、うっ殺す!…おい包丁持って来い、包丁!」という声を聞きながら意識が遠のいていったこともある。

それでも普段は陽気な人で、人の集まる場では面白いネタをいくつも披露して爆笑をかっさらうトークスキルのある人だった。

ヤンキーのセンスとはいえおしゃれに気を遣っていたし、金は無いのに見栄っぱりで時計やアクセサリーを後輩にすぐあげてしまうような気前の良さもあり、これは確かにモテるだろうなと思わせる色気があった。

若くしてデキた子どもだから、「お父さん」と呼びながらも「近所の兄ちゃん」的な感じがあった。実際、同級生のお父さんは「おじさん」なのに対し、うちのお父さんは若くて格好いいというのがちょっと自慢にも思っていた。

自分が小学生高学年の時でも、まだ20代だったんだもん。お笑い番組が好きで、日曜の昼間は「やすきよ」や「枝雀」の番組を一緒に観ていたし、サザンオールスターズやツイストのレコードを買ってきて、一緒に聴いてたりしてた。

暗く陰険な育ての母にネチネチいじめ抜かれている毎日の中で、親父といる時間がどれだけ楽しかったことか。(「育ての母親」については別の機会に書く。暗い話になるのであまり書きたくはないが。)

学校から帰宅して、夜9時ぐらいに育ての母が仕事から帰ってくる…それまでの間、自分は国道3号線に面して車通りの音がうるさいアパートの2階の窓際にへばり付くように座り、アメ車のエンジン音が聞こえてくるのを、ひたすら待ち続けていた。

エンジン音が聞こえると車道側の窓を開けて、全長5メートル以上ある車体がバックから切り返して、安アパートの駐車場に斜めに突っ込んでくる様子を眺めていた。

うちの親父が家にいる間は、育ての母親にいじめられなくて済むから、心から安堵していた。少年時代の自分の救いは、親父と過ごすその僅かな時間にしか無かったのだ。


晩年…といっても亡くなった時はまだ四十代。今の自分の年齢よりもずっと若くしてこの世を去った親父。太ったり痩せたりを繰り返して…それもきっとシャブのせい(最終的にはC型肝炎が死因だが、注射器感染じゃなかったのかなと密かに疑っている)。一時期太っていた時は勝新に似ていたし、痩せて口髭をたくわえていた時はサダム・フセインに似ていた。自分と全く似ていないバタ臭い顔の父は、最後まで女にモテた

葬儀の場で初めて会った、父の最期を看取ってくれた女性は、その時の自分と同い年だった。「やるなあ…。」と感心した。稼ぎもなく、資産もなく、まもなく死ぬ男が女性を口説けるだろうか。

「もう最期は好きにしてください」と退院する時は、その病棟の看護婦さんたちがみんなで泣いたという話も聞いた。

退院した翌日、いつものように海釣りに出掛けて、そして次の日に亡くなったらしい。

周りの人にたくさん迷惑をかけて、そのぶん自分は自由に(好き勝手に)生きて、短い生涯を終えた。


一方の自分は、顔も親父とは真反対の平面顔。喧嘩する腕っぷしもなく、大バクチに出る度胸もない。何より女にモテたことがない。

「おっかしいなぁ〜。俺にはジゴロの血が流れてるはずなんだけど、なんでこんなにモテないのかなあ…。」

と言うのが、事情を知っている人にだけ通じる、精一杯の自虐ネタだったりする。

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