映画『ファイト・クラブ』視聴記②


以下の記事などで『ファイト・クラブ』について触れてきましたが、この記事はその内容をさらに深めた記事になっています。1つの結集点と言っても良いでしょう。

この記事は上の引用の記事で不明だったところなどに対してさらに考察を加えて、不完全な部分を補強するような記事になっています。
この映画のテーマは、「思考」であるという認識は変わっていません。
この映画は、自分の思考に対する闘いを「拳による殴り合い」という相互行為に変換して描いた映画と考えます。
精神的な次元で行われることを、具体的な相手や肉体のやりとりにおいて描いたのが本作なのではないでしょうか。

最初の静止画のタイラーについて

前記事においては、一瞬映って現れるタイラーの最初のシーンについての見解がまとまっておりませんでした。
そのため、不能になってしまった男性達に囲まれているという状況から自身の反面の人格であるタイラーの像を意識させられるような状況になったとまずは考えたのですが、また新たな見解が挙がってきました。

睾丸ガンの患者の会合の場面。ここに置いて主人公は患者の告白の自己開示の場面に遭遇するわけですが、主人公は、この場面において他者を通じての告白・自己吐露に触れたわけです。

そして、「相手に心を開こう」という促しを通して、自身を認識・自分へ考えを向けるときに彼=タイラーが認識されたのではないでしょうか。
自分を省みたり、自分が内面を発するような状況に立たされたときに見えたのがタイラーです。
「果たして自分はどうだろうか」と自分の心の中を覗いたときに彼が見えたのでしょう。
最初の睾丸ガン患者の会合においてのタイラーの登場シーンと2度目のマーラが去るシーンでタイラーの姿が登場したシーンは、自分の思考が外部の他者のオブジェクション(対象性)=姿を取っていて、その時にタイラーが一瞬映ったのではないでしょうか。
私はそのようにタイラー登場の第一のシーンをまとめました。

痛みのモチーフについて

主人公である僕が痛みを受けるシーンをまとめてみました。

・酒場の前でタイラーと戦うシーン(実際には自分自身と殴り合っていただけでした)
・ファイトクラブに参加してメンバーと戦っているシーン
・薬品で手の甲を焼くシーン
・ビルの地下にて爆弾の解除後にタイラーと戦うシーン(これも自分自身と殴り合っていました)
・自分の口内で銃を発射させるシーン

まとめるとそんなに多くはありません。
その中で、自分自身に対して痛みを加えるシーンに着目しました。
前記事において、自らの手を焼いたのはもう一つの人格であるタイラーに対する認識を強めるために行ったのではないだろうか、ということを書きました。

酒場の前で自分がタイラー(=自身)に暴力を振るうシーン。自宅が爆破されて行き場のなくなった主人公は、この行動によって自分のもう一つの人格であるタイラーの存在をより認識することが出来たのかもしれません。思えば、殴り合う行為は相手の具体的な身体に対して力を加える行為ではありますが、これをドラマチックに記述してしまうと、相手の物理的な境界を自らからの行動によってお互いの境界を確かめる行為だとも書くことが出来るでしょう。
ある意味では、相手の具体的な存在に対してなにかを働きかけるとともに、相手の行為によって自らの存在の具体性をも確かめるような相互のやりとりが拳による闘いとまで書けてしまうのかもしれません。

思えば、タイラーの存在に対してケリを付けたシーンも銃による自傷でした。しかし、この行為は相手の存在を確認し合うための方法というよりは、相手の存在を抹消しようと意志した上で、自らの行動によって、自らにより深い傷を負わせると共にタイラーを抹消しました。
自らが自らに消えない傷を付けることで、自らに対する認識を更新し決意するようなそうした自分に対する痛みを通したやりとりがここにあるのでしょう。
そうして振り返ったときに、酒場の前でタイラーと殴り合うシーンも薬品で手の甲を焼くシーンも、相手を傷つけるのみならず自分に一生消えない傷を残すことや遂には銃によって自分を撃つという行為にまで発展するのですが、これらの行為は自らの思考の中においての自分の立ち位置を更新していくような行為としてあるように思えます。
これらをまとめると、自分が自分に対して暴力を行使するシーンはこの映画の中でかなり有効に働いている・配置されているのではないでしょうか。


以上をもって、『ファイト・クラブ』について感じたことや考えたことを書き出すことができたと思います。
ここまで読んでくれた方には深く感謝したいです。
また何か追記や気づいたこと・書きたいことがあれば加える予定です。


ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?