見出し画像

おかげさまで DJ 25周年

情熱以外何も持っていなくて、ハングリー精神の塊でしかなかった、90年代の7年を過ごしたニューヨーク時代の自分。トランク1つで乗り込んだ、911が起こる以前の街は文化が華開いていて、自由とエネルギーに満ち溢れていた。人種のるつぼで多くの人々に出会い刺激を受けながら、日本人として、ニューヨークで生き残るサバイバルゲームに身を置き、心も体も全てを解放して毎日全力で駆け抜けた青春時代。そんな多感な時期にドラムンベースと出会い DJになった。

駆け出しの3年間は、小さなアイリッシュ系の DJバーで毎週日曜日にDJをした。極寒の大都市に大雪が降って交通麻痺が起ころうと、サマーバーケーション時期に1人もお客さんがいない時も、現場であるDJブースに立ち続けた。ターンテーブルのピッチを合わせてMIXもままならなかった自分は1日でも早く上達したくて、毎日最低でも90分間はターンテーブルと向き合い、自分の MIXをレコーディングして、1日も欠かさず、それを聞き返す日々。

イーストビレッジのカフェで、4年間ろくな休みもなく、日本に1度も帰国することもなく、ずっと働きながら、いわゆる下積み生活だったけど、大変で嫌だとか、苦労したなんて気持ちは1 mmも無い。むしろ様々な国から集まる若者たちが生活する街で、自分の居場所と自分が何をやって生きて行くのか、自分本来のアイディンティティは何なのかを知りたかったし、日本では得られない体験や環境は毎日破茶滅茶に楽しかった記憶しかない。

そこから2000年に日本に帰国した。ご縁があって渋谷にあったクラブ WOMBで活動の場所を与えてもらって、自分の目的である DJも継続しつつ、当時は全盛期を迎えるずっと前だった箱を形にする為、チームで翻弄しつつも攻め続け、広報部長の仕事もした。そんな中、19年間続いたレジデントパーティー"06S"。このイベントのおかげで世界中に人の輪やネットワークが広がって行って、イギリス、アメリカ、ブラジル、オランダ、オーストリア、セルビア、チェコ共和国、台湾、韓国、中国、タイ、シンガポールに訪れる機会が生まれて各所で DJをした。各国の大型フェスティバルにも出演し、様々な国の文化や食に触れ、その土地の習慣を学び、少しづつ人として成長した。正にDJと共に歩んで来た人生。

そして、50歳を迎えてライフワークだった、06Sが今年の1月にファイナルを迎えた。その直後のコロナ禍。もうDJとして生きてはいけない。頭を丸めて引退し、DJしかできない自分が何か新しい仕事が見つかるのか、不安しか無い中、人生を賭け自宅押し入れからのライブ配信を開始して4ヶ月。気付けば今月9月で丁度、DJ活動が25年目を迎えた。

別にお前のDJキャリアが25年目になろうと、知ったこっちゃ無いと完全にスルーされると正直思っていたけど、ひたむきに16回、1人だけで押入れから行うライブ配信で、そもそも熱量が高くサポートをしてくれていたコミュニティーの人々から、オンライン上で盛大にお祝いをしてもらって、心から感謝している。本当に嬉しいし、ありがとうございます、と言う言葉以外見つからない。

勝手に25周年記念と銘打った、生配信のアーカイブを見返すと、25年の自分の歴史を振り返られて、この先の未来も自分の信念は決してブレずに、力尽きるまで、初志貫徹で挑戦し続けようと決心した。自分は何があってもDJだった。でも、今は真のストリーマーとして進化しようと懸命に食らいついてる。ただ1つ明確に言えるのは、この年齢になっても遅いなんて事は全くなくて、幾つになっても自分を変えらる。年齢は数字でしかなくて、これからもずっと前に強く突き進んでいく。そして、自分が開拓し歩む道のりが、次の世代の DJ達の道しるべになるように、DJ AKiのDJライフはまだまだ終わりそうに無い。むしろ終わらせるつもりは無いので、これからも是非サポートをよろしくお願いします。


勝手に25周年、2時間ドキュメンタリー生配信アーカイブはこちら





この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?