上を向いて歩く
思えば私はよく空を見上げて歩く子供だった。下校中はだいたい空を見ながら帰っていたし、外に出たら必ず1回立ち止まって真上を見ていた。そうしないと怒られるとでも思っていたのかというほど、あるいは義務的に空を見上げていた。義務的になるほど空が好きなのだ。
真っ青な昼間の空というより、夕暮れや明け方の焼けている空が好きだ。明け方は、深海のような蒼色から、橙色、黄色、水色というグラデーションがたまらない。夕暮れは真っ赤に染ったり、ピンクや紫に染ったりする空がいい。夕暮れの方が明け方よりも多いパターンの空を保有している。からとても楽しい。
私はアパートの三階に住んでいて、玄関が西向きにあるため、夕方家に帰ると夕焼けを見ることができる。階段を登りきって、一番隅にある自宅のドアに向かう間、存分に夕焼けを楽しむ。美しい夕焼けを見ている時、まるで夢を見ているみたいな感覚に陥る。その時私は身体が溶けて空気と一体になる。夕方特有の少し冷たく澄んだ空気と、自身との境目が曖昧になるのだ。それを感じた時は、昼間にどれほど嫌なことがあっても、いい一日だったと思えるのだ。
太陽がある時の空は好きなのだが、太陽が眠ったあとの月や星がいる空も好きだ。月が好きなのだ。月くらいなら旅に出かけてもいいなと思える。この世にあれほど美しく輝くものがあるだろうか。暗闇の中での救いだ。太陽の光を反射して輝いているのだといういうけれど、私はそんなの信じない。あれは私のために光っているのだ。あれは月を求めるもののために自ら光って、照らしてくれているのだ。
夜にベランダに出て煙草を吸うのは月を見るためだと言っても過言ではない。私と月だけが存在する空間。平和だなと思う。月の光を浴びて、明日のために自分を充電するのだ。どんな形の月も好きだが、異常なほど細い、上を向いたまつ毛みたいな月が好きだ。あれは二日月と言うらしい。それを知った時、とても衝撃を受けた。三日月があるのだから、二日月があってもおかしくはないのだ。なのに私はそれを失念して、20年ほど二日月の存在を知らずに生きていたのだ。新しいことを知るのは、水を吸った草花のような瑞々しい感覚がして嬉しい。
次に好きなのは新月だ。月の存在が不確かになる唯一の日。月はいついなくなるか分からないから、見れる時に存分に見ておこう思う。いなくなるわけがないと分かってはいるが、そう思わずにはいられなくなってしまう。新月は月をもっと好きにさせてくれる。月が不在の夜は、不安になるが、いつも私を照らしてくれているから今夜は私が月を照らそうという気持ちになる。少しだけ強くなれるのだ。
私の中の月は誰にも奪わせないし、誰かの中にある月も奪うことのないように生きたいと思う。空や月を見上げる時間はとても平和で穏やかで悪者はいないのだ。上を見上げる人々の平和な時間は誰も侵すことはできない。何も、誰も、自分も悪くない、そんな穏やかな世界を大切に守っていきたい。
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