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ママ

宇佐美りんの『かか』を読んだ。読んでる最中痛くて痛くてたまらなかった。薄皮が向けて血が滲んでいるような痛みを心に抱えながら読み終えた。母の顔が思い浮かんだ。

うーちゃんはどうしようもないほどかかを愛していたし、どうしようもないほど憎んでいた。憎みたいのに、自分の中心にはかかがいて、染み付いて取れることはないから、いつの間にかまたかかに愛を抱いている。うーちゃんは幼少期かかのことが大好きだった。その愛がうーちゃんの中に根付いているのだ。それ故に憎もうとしてもその愛が染み出してしまうのだ。かかとうーちゃんにはお互いしかいないから縋ってしまう。だから彼女はどうしようもなくなってかかの手術のタイミングで家を出たのだ。二人が救われるためには離れるしかなかったのだ。かかを失ってしまいたいとうーちゃんは思うけれど、結局かかは手術が成功する。きっとこの先もうーちゃんはかかに囚われたまま生きづらいまま生きていくのだろうと思う。

生きづらくて何者にもなれない。もがいてももがいてもどうにもならない。何かになろうとしてSNSに潜り込んで、そこに自分にとっての安らかな生暖かい社会を作り出す。ちょっとでも災害が起きたら簡単にその社会をシャットアウトして、別の場所に他の社会を見出す。生きづらい人々は、少しでも生きやすいSNSに生きるのだ。
うーちゃんにはかかだけじゃない生きづらさが明確にあった。


この小説で、私が共感していたのはうーちゃんやかかの生きづらさである。2人の関係性については、理解はできるが全くと言っていいほど共感は出来なかった。というのも、私は両親の愛を一心に受けて育った。過保護に育てられたのだ。

私の母(私は幼稚園の頃からずっとママと呼んでいるのだが気恥しいのでここでは母だ)は、面白い人だ。コメディアンのような面白さではなく、自分のしっぽを追いかけてくるくる回る犬のような面白さがある。
実家にいた頃、さっきまで和やかに会話していたはずなのに、少し目を離すと「なんでこれやってないの!」と怒る。当時(今もだが)これにはだいぶイラついた。世のお母さんはこんなものなのだろうか。いつか母になればわかるのかしら。
また、彼女は騙されやすい人だ。母が専門学生時代の頃、長い間連絡をとっていなかったそれほど仲の良い訳ではない友人から電話があったそうだ。喫茶店に行き、話している時に泣きながらお金を借してほしいと言われたらしく、母はお金を渡したらしい。その後、友人とは連絡が取れなくなったそうだ。学生にとってはまあまあの金額だったらしく痛かったなぁ、なんてにこにこしながら話してくれた。
ほかにも、「吉野家の紅しょうが量り売りになったらしいよ」とか、「成人女性の一日の平均歩数は4600歩らしいよ」と言うと、そうなの!と鵜呑みにしてしまう。子供ながらになかなか心配する。そのうち壺とかブレスレットとか売りつけられてしまうのではないだろうか。

私が大学生になり東京に出ると、母の過保護は加速した。私も母のことがより大好きになった。ちゃんとご飯は食べれているのか、家賃、光熱費は払えたか、色々なことを心配されていた。心配されるというのは嬉しいもので、自分を愛してくれている人がいる証明だなと思う。
母の日や、誕生日、家に帰った時に贈り物をすると、予想以上に喜んでくれる。贈ったものが実家の母の化粧ダンスの上に飾られていくのはとてもいい。ちゃんと掃除をしてくれているのだろう、埃が積もることはない。心が満ち足りるというのはこういうことなんだと思う。

もうすぐ母の日だ。親孝行をしなくては。今年は何を贈ろう。早く母のあの嬉しそうな声が聞きたい。

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