第1章 ニューヨーク市とブラックコミュニティ

1.1 Black Lives Matter運動までのニューヨーク市ブラックコミュニティの歴史

1.1.1 南北戦争終了まで
アメリカでの黒人差別の歴史は、ヨーロッパ諸国植民地時代に実施されていた奴隷制度にまで遡る。それはニューヨーク市でも同様で、ニューヨーク市がオランダの植民地「ニューアムステルダム」として知られていた1626年に最初の黒人奴隷が流入したとされる 。18世紀当時のニューヨーク市の人口の五人に一人が黒人であったとされ、そのほとんどが奴隷であった。1709年から1762年まで、ウォール街のイースト・リバー沿いには奴隷市場があったとされている。1861年に発生した南北戦争から推察されるように、その後ニューヨーク市は北部の世論を代表する都市として奴隷解放を推し進める中心地となる。しかし、実際にニューヨーク州で奴隷制度が廃止されたのは1827年と、南北戦争が始まるわずか34年前のことである。奴隷制度が廃止された頃のニューヨーク市はすでに、港湾都市としての隆盛の影響から、ウォール街を中心とする金融都市として大繁栄をしていた。ニューヨーク市を中心としたアメリカ北部のその経済力は、農業資本に頼っていた南部を圧倒することとなった。
そうした中で奴隷解放運動が北部を中心として始まったが、ニューヨーク市が完全に奴隷解放論を支持していたかというと、必ずしも真実ではない。前述のように、経済的成長による生活の安定が見込められる当時のニューヨーク市には、貧困や迫害によってヨーロッパから逃れ、より良い生活を求めてたどり着いた大量の移民が続々と上陸していた。そうして人口が膨張すると治安が乱れ始めたり、移民のグループ形成によって仕事分配の不均衡が起こったりする。結果として、低所得の仕事でさえも奪い合うような苦しい状況が発生することとなった。そうした中南北戦争が発生し、兵隊員の募集が開始された。それを知った新参の移民の中には、経済的安定を求めるとともに、「アメリカ人」として認められるという社会的地位確立のために、南北戦争の兵隊に志願するものが多く現れた。
しかし、兵役によって命の保証ができないとことは、貧困に悩む移民の一家とその今後の繁栄にとって、大きなリスクである。とりわけ、ヨーロッパから苦労の末にたどり着いた土地で、黒人と職を争い、低所得の仕事さえも得られなかったような新参者の移民にとっては、自分の命や家族をリスクにかけてまで黒人奴隷を開放するための戦争に行くことは納得できないものであった。そうした背景のもと、新参移民の中でも、特に汚く貧しいと言われていたアイルランド系の移民を中心として1863年7月にニューヨーク市で蜂起し、大暴動 が発生した。それまで、奴隷の黒人たちは、自由に過ごせるエリア であったグリニッチ・ヴィレッジの中心であるワシントン・スクエア・パーク周辺を最初に開墾し(このエリアはもともと一面湿地帯であった。) 、奴隷としての年季明け後もその周辺エリアに住み着いていた。しかしこの暴動によって、黒人はアパートから引き摺り出されてリンチを受けたり、そのエリアを中心とした数カ所で、黒人の死体が首に縄を巻かれた状態でストリートに吊るされていたりといった事件があったと記録されている。これは、アメリカ史の中でも最悪と言われている都市暴動・人種暴動の一つとなった。

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