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商品としての「本」

商品としての「本」

こう見えても(見えませんが)、私も、齢50を超え、流石に多少は分別もついたかと思っていたが、いまだに「これまでお前はそんなことも考えたことが無かったのか」と自分でも愕然とすることが、ごく、たまにある。あくまで、「たまに」であって、しょせん一日に3回程度くらいではあるが…
先日も、書物というのが、実は、お金で流通する商品の一つである、商品の一つにすぎない、ということにふと気づき、逆に今まで、どうしてそういう認識に至らなかったのか、と、50年あまりの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

購入時の心理

むろん、小生、ほとんどの場合、これまでも本屋さんでちゃんとお金を払って書籍を購入してきたわけであり、決して、万引き・窃盗・友人や図書館からの借り倒し、などという手法を駆使して、無償にそれらの書籍を手に入れてきた訳では無いのだが、どうも、同じお金を払うにしても、アイスクリーム、酒、パソコン、カップラーメン、文房具、いかがわしいDVD、携帯、新幹線のチケット、美術館・遊園地などの入場券、宝くじ、不動産、すぐに無くしてしまうのにゴルフのニューボール、ネクタイ、チョコレート、家族から邪魔くさいと言われるエアロバイク、などなどを購入する時と、心持ちがまるで違う。
どれもこれも、その購入する商品に対して、そのお金を払うだけの価値があるか、費用対効果について、多少の逡巡と考察はしてきたはずなのだが、どうも、書籍については、その意識が低かったように思える。
いや、この金額でこの文庫本を買う価値があるか、なんてことはもちろん書棚の前で、きちんと考えるのだが、一冊の本でもしかすると自分の人生すらが変わってしまうかもしれない、という、誰からか刷り込まれたかもしれない、あるいは都合の良い出版社の広告に騙されていたのか。
実際、定価360円と記された古いカビ臭い文庫本が手元に残ってたりして、出版された日付から察するに、果たして自分が40年以上前に購入したのか、後に古本屋で購入したのか定かでは無いが、にしても長いこと、しかも海外も含めていろんな地を転々とする間も携えてくるほどの価値を見出していると考えれば、費用対効果や減価償却、という概念を超えたところで価値があることは間違いない。

売り手のロジック

ま、それならそれでいいじゃん、てことになるのだが、どうして今回の発見が衝撃的だったか、と言うと、買う側はそれでもいいけど、売る側は、全く違う視点だったんだな、ということに気付いたからと言える。
売る側と言っても、書き手、ではない。自分がこれまで購入してきたのは、いわゆる、本屋さん、書店だ。
一冊の文庫本や絵本ですら、一人の人生を変えかねない、つまりその真の意味での経済効果を、お金では一義的に換算できない書物を、無造作に陳列している、あの本屋さんも、実は、現代の社会の中で、経済活動を行う一つの営利企業である。つまり売らなくてはいけない、利益を出さなくては行けなかったのだ…
知らなかった… いや、考えたことが無かった…
ということにようやく気付いたのは下記を読んでのこと。

今回は内容には触れないとし、その内容がどうこうと検証する立場にも無いが、なるほど、本屋は、生き残るために、確かに、あの手この手で商品(本)を売ることを考えなくては行けないし、出版社との関係、出版社の中の編集者への想い、さらにその先の作家への想い、いろいろあるわけだ… と気付いた次第…
(もちろん、ちなみに上記書籍は、そんな出版業界を舞台にした物語であって、出版業界の裏側を暴く、類の本ではありません、念の為。)

お恥ずかしい…

売れる本とは

私自身、最近は正直、デジタル版をネットで購入し、そのままタブレットで読むことが多い。ので、そういう時代的な流れの中で、本屋さんをどう位置付けるか、とか、そもそも、そういう時代だからこそ、お前もNoteにこうして書いてるんでしょ? という話題は今回、割愛させて頂くが、デジタル版を重宝していながら、それでもなお紙の書籍を定期的に買わずにはいられない性分であることは一応白状せざるを得ない。
で、昔から、通学・通勤で便利な駅前の本屋さん、に立ち寄ることが多いのだが、正直、最近、どの本屋に言っても、なんだかどこもかしこも仰々しい帯をつけた同じ本を平積みしてて、まあ確かに読んだら発見はあるかもしれないんだろうけど、なんだか、どうしても売ってやろう、という感が見え透いてて、白けるなぁ、と感じることも度々。
それでも、結局、そういう売れ筋の本を購入することもあるし、かつそれで実際おもしろかった際には、ちぇ、と言いながら感謝したりもするのだが…
だったらいいじゃねぇか、と思いながらも、自分の中での書籍に対する期待、というか、憧憬というか、書物文化が持つ全体像への期待感が大きすぎるせいか、売れてる最近の本ばかりじゃなくて、「全然注目されてないけど、これは… て、読みながらびっくりするような本に、俺は出会したいんだよ」などと独りごちることも。

書籍との出会い

そう、我々は書籍と出会いを求めている。厳密に言えば、書籍の中にある、物語、と言うべきか。
ところが、ネットでの購入が往々にそうなりがちなように、インターネットを利用していると、サイトを超えたいろんなトラッキングをした上で、なんだか、こちらの好みを見透かしたような本を勝手に薦めてきたりする。

ネットは、階級を固定する道具です。

『弱いつながり 検索ワードを探す旅』東浩紀

いきなり、上記で始まる『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(東浩紀著)にも書かれているように、

ネットを触っているかぎり、他者の規定した世界でしかものを考えられない。そういう世界になりつつあります。

『弱いつながり 検索ワードを探す旅』東浩紀

ネットでなくて、わざわざ本屋さんまできてるのに、「他者が規定した世界」を押し付けられてる気分…

知性への憧れ

そもそも自分には、きちんとした知性が備わっていないせいか、その反動で、知性に対する憧れ、が人一倍、強いのかもしれぬ。
思い返してみれば、幼少時、西日本のとある県境の小さな町に住んでいたが、月に一度か、両親と一緒に、県庁所在地に出かけることがあった。よく、その中心部にあるデーパートに訪れたが、その巨大な複合ビルの中間階にあるフロアを、丸々占めている大型の本屋に行くのがことのほか好きだった。
そこまで、本の虫だったか、と言われれば心許ない。
ただ、当時、小学生だった自分にとって読めない本、到底理解不能な言葉で書かれた専門書、ただひたすら美しい美術コーナー、もはや単なるヴィジュアルにしか見えない洋書、シリーズ化された書籍群が醸し出す何かしらの体系、そもそも、世の中にこれだけの専門分野が分かれ、それぞれごとに、なにやら物凄い世界が広がってるのだ、という、とんでもない世界を見るようなワクワク感が抑えられなかった。
そんな、大海原とでも言う世界の中で、どんな物語が自分を待ち受けているのか。
無知な自分が、それらの中から適切に本を選択するなど不可能だろう、きっと、適切な本の方が、自分がやってくるのを待っていて、適切なタイミングで自分がふと偶然その書籍に手を掛けるのを待っている、そんなロマンチックな空想に耽っていたのかもしれない。

書籍と経済

無垢なロマンチストにありがちなように、その時点から、書籍には、貨幣で交換するのとは無縁の価値がある、そんな風に夢想してきた。
にしても、なお、書籍が流通するためには、これまで書店が必要であった。
書店が普及し、田舎の学生にも物語が届くためには、書店が売れた方がいい。
だから書店も営業努力をする。出版社も売れる本を作ろうとする。書店員もきちんと対価をもらう。
そこはようやく、齢50をすぎて理解もした。

それでもなお、そう言う経済活動とは別の価値システムが存在する。
それを実現するためにデジタル書籍もあるだろう、Noteもある。
今後、ますます、それらの真価が試されていくはずだ、今以上に。

書籍が内包する距離

経済活動とは異なる価値体系の存在。
議論されつくした話題なのかもしれないが、いまだに、50を過ぎても、自分
の中で、真の意味で解消されていない。
本・書籍という存在が持つ、経済的な意味と、もっとパーソナルでウエットな意味との間の距離。
その後、久しぶりに訪れた神保町の古書店で、駅前本屋にはない空間に身をおき、思わず深呼吸をして長居をしたが、明らかに、そこは時空が捻じ曲がっていた。距離感が全く異なる。そこでも、れっきとした経済活動がなされていること自体は当然であろうが。
今まで、書籍がいろんな形で提供してくれる、人生という距離をドライブするための知恵、にしか興味が無かったが、しばらく、そんな、オブジェクトとしての書籍が内包する距離のことも、考えていきたいと思った、そんな今日この頃。


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