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ドラマ『コントが始まる』 コントという距離

(ネタバレあり)

ドラマ『コントが始まる』

を、Netflixでまとめて視聴。

最近のテレビの連続ドラマは、どこか、マーケティングを意識した「『意外な結末』という名の予定調和感」に溢れてる気がしてならないなぁ、と偉そうな感想を抱きつつ、まあ、そういう制作者側の意図にまんまと乗せられて鑑賞するのもまあいいか、と、普段からあまり肩肘張らずにみるようにもしており、ドラえもんでも日本沈没でも失敗しない女医の話でも、柔軟に立ち位置変えながら見ることが多い。
が、この作品、意外な角度で鑑賞でき、面白かった。

ネタバレを含むが、あえてドラマの順序を無視しつつ、このドラマの要素を振り返ってみる。

ファミレス

売れない芸人がネタ打合せをするのが、深夜のファミレス
ここで、主人公である芸人コントトリオ3人の間の、さまざまな物語が繰り広げられる。それは、まさに、3人の若者が織りなす三角形の距離の物語の舞台
ケンカ、笑い、沈黙、と容態を変えていく生き物のように膨らんだり萎んだり。

中華料理屋

無機質で均一感のあるファミレスが育む3人の距離が、現代的で、現実的であるのに対し、年季の入った中華料理屋が織りなす距離は、ちょっとごま油が香りそうなくらいに油っこくウエットで、思い出という時間的に遡る距離も担う
中華料理自体が潜在的に持っている、料理としての歴史的な距離がそれを助長するのか。

そういえば、母親との断絶という距離を辛うじて繋いでいた料理は、ナポリタンスパゲティ、という、元々はイタリアン料理でありつつその実、戦後日本の高度経済成長時の洋風化を象徴するメニューでもある。
料理が担う時代的な距離感もあちこちに小道具として埋められている。

公園

舞台といえば、主人公である芸人トリオのリーダーと、後にその芸人トリオのファンとなる女性の出会いの場でもある、公園
その中でも、ベンチやブランコという装置は、ドラマにとっての重要な大道具としてだけでなく、今回のドラマの中の設定としての小劇場に、昔から定番としても登場する装置としても、二重の意味で、重要な「距離」を演出する舞台となる
メンバー同士の間の、メンバーとファンとの間の、男と女の間の、それらの静的な距離を見せるベンチ、揺れ動く距離を見せるブランコ

いつも3人を乗せ、たまに恩師やファンの女性も乗せる車も重要な舞台の一つだ。
物理的な距離を運ぶのみならず、3人の間の心理的な距離の舞台でもあり、高校時代から芸人を辞めるに至るまでの10年間という時間的な距離の舞台でもある。

家族

優秀でありながらマルチ商法にはまって挫折、引きこもった兄を持つリーダー。
家業の継承について、微妙な関係に陥るメンバー。
母親から否定された傷を引きずるもう一人のメンバー。
それぞれが、兄弟・両親らと、いろんな距離を持って生きている

主人公女性姉妹もそうだ。
姉は、責任感が強すぎるが故に、会社で潰れ、辞職し、鬱に陥った。
妹も、野球部マネージャーとして輝いていた高校時代以降、やりがいを見つけきれずに、スナックで働いている。
会社員と無職の間の鬱という暗い距離の中をさまよう姉と、伝説のマネージャーという輝かしい成功体験とカウンターの内側で水割りを作って何となく客の相手をする水商売的な少しく湿った日常との距離の中で閉塞感も感じている妹、この姉妹の間の距離
姉妹も、お互いの距離を近づけたり遠ざけたりしながら、成長をしていく。

恩師

家族に限らない。
芸人トリオのコンビ名にすら取り込まれる恩師。
高校時代、先生と生徒という距離にありながら、指導教科の範疇を超えて、生徒たちのやりたいことを時として後押しし、先生/生徒という構図が終焉している卒業後も相談する/される距離を継続している。
それは、一方的な教える/教わる、を超えた、双方向の距離だ。
気づけば、高校で教師であった先生/彼自身が若く夢を追っていた自分の先生/高校時代の主人公たち/卒業した後さまよっている主人公たち、様々な主体が、時代と年齢が入り混じりながら、複雑な距離があぶり出される。

働くということ、結婚するということ

要は、生きる、ということは、こうやっていろんな人といろんな距離を育みながら日々を過ごしていく、ということだ。
就職する、結婚する、いろんな人生の岐路に人は立たされるが、これらに、立派な理由づけやお題目はいらない
誰かのために役立つだけでも、会社の受付に飾られた花の美しさだけに惚れるだけでも、きっかけは、何だって良い。重要なのは、とりあえず何か動いてみて、目の前に現れる様々な距離と向き合い、それを上手に育んでいくことだ。

挫折、鬱に陥ること。それらは、距離の取り方を学んでいく上で、一時的に負う、傷でもある。転びながら出ないと自転車の乗り方が習得できないのと同じ。

生きるということ

つまり、

  • 生きるとは、日々出会う様々な出来事や人物、それら対象というよりも、むしろ、その対象と自分との間の距離にきちんと向き合って、日々、その距離を味わうということ

  • ドラマとは、そういう距離との向き合い方についての物語を、映像とストーリーで見せること

  • コントとは人が距離と向き合う時の真摯さと、時折無慈悲で想定外の方向に向かうストーリーの間のギャップ、悲喜劇という名の距離を面白おかしく取り上げることで、距離を味わうことの楽しさを人々に気づかせること

ではないか。
だから、人は、ドラマを見られずにはいられないし、売れない芸人のコントを見に小劇場に通うことになる。

売れない若手芸人

ドラマとしては、つい、売れない若手芸人が、色々な苦難を乗り越えて成功していく、というサクセスストーリーかと思いきや、最後まで、いかに売れずに解散していくか、というあたりを描く

夢という距離を見ながら、「売れる」と「売れない」の間の距離に翻弄される、芸人コンビ。
中途半端に、成功という名のありきたりで「手垢まみれの距離」の物語に陥ることなく、徹底的に、「芸人コンビ」自体が既に「大きな距離」という物語である、と描きながら、それを「コント」という「距離」自身として体現してみせている。

ロケでの撮影と実際の小劇場での演出という、二重の舞台装置をうまく織り交ぜながら、実に様々な「距離」を丁寧に見せ、それぞれの「距離」と「距離」が時として呼応・相関、さらに入れ子のように作用しあう様子も描いたあたりが、心地よい。

このドラマには、上記「距離」を描くための様々な伏線がはられているのはもちろんだが、中でも、「水」にまつわる「距離」が、ドラマの最初から最後まで静かに流れている。

  • リーダーとファンの女性の間の「距離」をつなぎ、ただの水道水からメロンソーダへと「あり得ない距離」を踏破して変貌する驚きの「メロンソーダ水」

  • 関わった人を不幸に陥れてしまう、マルチ商法を象徴するものとしての、「奇跡の水」

  • 配管という水の距離を運ぶ装置を治す「水のトラブル」エンジニアという職業…

様々な「距離」と、「距離」を育む舞台

まだまだ、このドラマに埋め込まれた距離と、その舞台装置は他にも枚挙にいとまがない。
なにしろ、そもそも、コント自体が、人生における距離をあぶり出してそれを面白おかしく伝える行為なのだから、毎回のエピソードごとに、「コントの中の距離の物語」と、「ドラマとしての距離の物語」が重奏する。

  • 『水のトラブル』

  • 『屋上』

  • 『奇跡の水』

  • 『捨て猫』

  • 『カラオケボックス』

  • 『金の斧銀の斧』

  • 『無人島』

  • 『ファミレス』

  • 『結婚の挨拶』

  • 『引越し』

これらの、全10回のエピソードタイトルを上げるだけでも十分だろう。
それぞれごとに埋め込まれた様々な「距離」を取り上げながら、さらにそれぞれの「距離の背景としての舞台装置」について、深堀したくなるくらいだが、横道にそれすぎるのでそれはまた別の機会に。

日常/ドラマ/コント

いずれにせよ、最後まで見事に「距離」を、ドラマとコントで重奏してみせた本作品、実に距離マニアとして、興味深いだけでなく、実際に楽しませて頂きました。

繰り返すならば、中途半端に、成功という名のありきたりで「手垢まみれの距離」の物語に陥ることなく、徹底的に、「芸人コンビ」自体が既に「大きな距離」という物語である、と描きながら、それを「コント」という「距離」自身として体現してみせた。
そして、それを、成功体験としてのハッピーエンドや、失敗からの学びなどという中途半端に教訓じみた物語に回収せず、最後も、中途半端に放り出してみせ、そもそもトリオ解散というお終いに関わる物語「コントが始まる」といういかにも唐突なタイトルのもと、何かの「始まり」の物語として「終わらせ」てみせたこと
これこそ、この作品が「距離」を象徴していると感じさせる要因かも知れない。

鑑賞後のある種の爽快さは、この辺りから来ているのかも知れず。



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