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日常を

今日は、恋人と、仕事が終わったら一緒に買い物をして帰ろうね、と約束していた。
金曜日。朝、恋人を見送る時には、いつも、行ってらっしゃい、気をつけて帰ってきてね、と言ってしまう。無事に行って、無事に帰って来てね。気をつけてね。行ってらっしゃい。


昼休み、職場のテレビを点けると飛び込んできた赤い文字に、一瞬でこころがぐにゃりと波打つのが分かって、それでも今日はとても忙しかったから、目の前の仕事に手一杯だったから、大丈夫だ、わたしは大丈夫って思ってた。
 

銀行に行った。テレビを見ても、携帯を見ても、おんなじ名前が繰り返し流れてる。セミが小刻みに忙しくジュッジュッジュッ…と鳴く音、ぽとりと落ちる寸前の線香花火のようで、充電が切れそうな玩具のようで、やだな、と思った。
炎天下。7月。

月曜日にする仕事を書き出して、書類を整理して、お疲れ様でしたと言って職場を後にする。公のわたしをするすると脱いで、交通機関に乗り込んで、携帯電話を取り出して、何気なく目に入った速報、という文字を掴まえる。
じわりと視界が滲んで、なみだがぽとりと落ちた。
隣の大汗をかいたおじさん、くさいなぁ。窓から見える空を仰ぐ。外はこんなにこんなに暑いのに、ちっとも晴れてない、
曇天、どうして。

駅に着くと、恋人はまだ着いていなくて、近くの本屋さんに向かう。向かっている途中に電話がかかってきて、どこにいるの、と言う声が聞こえて、あ、そういえば…と言う恋人を、いわないで、と遮って、お買い物の前に、本屋さんに行ってもいい?と聞いた。恋人は、だめですよ、と笑って、だめですか、と笑ったらいいですよ、そっち向かうね、と答えて、電話は切れた。


本屋さんの、紙とインクの匂いはおちつく。どこよりも静かで、どこよりも言葉で溢れている場所。最近とても好きだなと思った漫画家さんの名前を検索していたら、横に気配を感じて、振り向くと恋人がふっふふふと笑って立っていた。わたしもふっふふふと笑う。いつのまにいたの。おかえり。おかえり。おつかれさま。おつかれさま。ちょっとそこで電池買ってきていい?まだ本見るでしょ?見てていい?うん、じゃあまたあとでね。うん、あとで。恋人のきらきらした目を見ると、やわらかい声を聞くと、波がすっと穏やかになり、こころがようやくまっすぐを取り戻した。安心して、本屋さんをぐるりと一周して、漫画を一冊だけ買った。

昨日、恋人が寝言を言った。
「何うどん?」
あんまりはっきり言うから、話しかけられたのかと思って、「うん?」と聞き返したら、えええ、と笑いながら、〇〇ちゃんとうどん屋さんに行って、〇〇ちゃん、なにうどんにする?って聞いてた、と教えてくれて、可笑しくてしばらくふたりで笑っていた。はっきり言ってたよ。うどん、って聞こえたけど、うどんじゃないよね、と思って聞き返したのに、うどんだったの。うん。夢の中でもわたしと一緒に行ってたの。うん。明日行こっか、うどん屋さん。うん、行こ。

約束通り、熱いうどんを食べながら、「思ったよりショックを受けてたけど、なんか顔見たら落ち着いた」と言うと、恋人は、「わたしたちはわたしたちの日常を送ろう」と言った。
 



いまこの瞬間も世の中でたくさんの人が生まれて亡くなって、楽しい思いも苦しい思いも、悲しいことも嬉しいことも同時に起きているんだろう。わたしはそのほとんどを知らないし、誰かの大きな悲しみや痛みを受け止める器はない。
だからせめて、大きなものに呑み込まれずに、地に足をつけて自分の明日を見られる人になりたい。


なみだを落とすわたしをチラリと見て、「見ないよ」と携帯の画面を消してくれる人が近くにいてくれて本当によかったと思った。いつもありがとう。


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