見出し画像

長生き

大切なものは、いつまでも壊れずに、そこにあって欲しいと思う。

大切な人は、いつまでも健康で、隣にいて欲しいと思う。

「長生きして欲しい」「痛い思いをしないで欲しい」
そう願うことが、わたしにとっては誰かへの愛で、だけど、大切になればなるほど、いつか必ず来る離別、手を離すその時がどうしようもなく怖くなってしまう。


彼女はいつも、外がまだ暗い中に出勤する。
「気をつけて行ってね」「気をつけて帰ってきてね」
毎日のことなのに、声をかけずにはいられなくて、彼女は「いつも起きてくれてありがとう」と言ってくれるけれど、それは、いつ来るか分からない不慮のなにかに怯えているわたしが後悔しないための手段のひとつでしかないのだ。

それでも、やっぱり不意打ちの悲しみにはとうてい耐えられないと分かっているから、「怪我しないでね、わたしより長生きしてね、お願いだからね」と伝え合って暮らしてきた。
「もしも突然あなたがいなくなっても、大丈夫、わたしちゃんと強く生きていくからね」と気丈に、強さを持って笑いあっていられたら。その言葉の裏にある愛情の強さはきっと本物だ、でも、わたしは、まだ。

そんなことを考えながら暮らしていたら、本の一文であったか、ブログであったか忘れてしまったが、先日、「大切な人に、大切な人を失わせる大きな悲しみを経験させたくないから、自分の方が長生きしよう」という考え方に触れて、目から鱗が落ちる気持ちがした。
そうだ、大切な人は、わたしのことをいちばん大切に感じてくれているかもしれない。大切で愛おしい人を失った時の悲しみ、喪失感、わたしはそれらを味わなくて済むけれど、大切な人にその大きな感情を味わせてしまうことになる。

「大切だから、無事に帰ってきてね、突然いなくならないでね」という感情は、たしかに純度の高い愛情なのだけれど、「大切なあなたを悲しませないために、長生きするから、任せてね」という気持ちには、どれほどの愛情が込められているのだろうか。

彼女とともに暮らそう、と決めた瞬間のことは、明確に覚えている。
当時、東京と九州で遠距離をしていて、テレビ電話を繋ぎながら、以前から計画していた「わたしの近くに彼女が引っ越す」という話題について話をしていた。
突然、「やっぱり、一緒に暮らそうよ」と彼女が切り出して、実家で暮らしたことしかないわたしは、ふたりで暮らすという責任や生活力を負う自信がなく、どうしてもすぐに頷くことができなかった。
すると、彼女は、「一緒に暮らそうよ。一緒に暮らして、色んな楽しいこと一緒にしよう、1月は一緒にお雑煮作って、2月は豆まきとバレンタインデーをして、3月はちらし寿司を作って、4月はお弁当を持ってお花見に行って」と、彼女の未来とわたしの未来をひとつに包み込んでくれたのだ。こんなにも真っ直ぐに、自分の未来を楽しいものにすると約束してくれて、一緒に生きていきたいと言われたことなどなくて、彼女と過ごす春、夏、秋、冬、その次の春のことを想像して、そのあたたかさに涙が止まらなくなってしまった。
生きていると、こんなにも楽しいことがたくさんあるよ。そして、それをあなたと経験したいよ。
共に生きたい。もらったことのない大きな愛情に、胸がいっぱいになってしまった。

一過性のなにかにしたくなかった。いつか手を離すことがあったとしても、一緒にいたことを、わたしを形作る大きなひとつとして、自分の歴史の中にこの人のことを刻みたい、と願ったから、ともに暮らすことを決めた。

共に暮らすということは、責任を負うということ。怪我をしたり、病気をしたり、不慮の事故に対面する可能性があるという怖さをも手に入れること。
「あなたに悲しいことが起きたらわたしは耐えられそうにないから、無事に帰ってきてね」
その気持ちをゼロにするのは難しいけれど、「あなたに悲しい思いをさせるわけにはいかないから、わたし、長生きするね」と気丈に言える強さと愛情も、これから少しずつ育てて行けたらいいな、と思うのである。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,034件

#眠れない夜に

69,153件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?