文学フリマ等に行って思ったこと

わざわざ公開しなくてもいいのだろうけど社会性を発揮しておきます。

私が最も読みたいもの

 その人が好きな作品をいくつか挙げて、なぜ好きになったのか、どんな理由で好きなのか、その人と作品との内的な接点は何なのか、それについて思考した道筋を語ってほしい(各8ページくらいで)。「好きなことに理由なんてねーよ」という人もいるかもしれないが、それならばその「好きなことに理由なんてない」という主張に至るまでの思考の道筋を語ってほしい。それはものすごく読みたい(自分もそういう節はあるので)。

 自分の探し方が悪いのか、こういった本はなかなか見つけることができない。

同人誌について

 複数人でひとつの本を共同で作り上げるということの面白さとは何だろう、と思うことがある。メリットなら想像がつくけれど。複数の人が文章を書いたものを一つの本としてまとめれば、中身がそれだけ多様になる。様々な興味関心や切り口が見られるだけ、その本は手に取られやすくなる。即売会に来ている人たちの興味関心も様々だろうけど、その本の中の一記事でも買い手の関心にマッチすれば、とりあえず立ち読みくらいはするだろう。また、特定の論考が目当てで手に取った本でも、他のところに思わぬ出会いがあるのもメリットかもしれない。全く知らない書き手だし興味も惹かれない題だが、とりあえず読んでみたら面白い書き手だったということはこれまでにもあったからだ。

 雑誌の体裁をとっている同人誌は、「特集」というのをよくやっている。特集のテーマに沿って、サークルメンバーやゲストの書き手が文章を寄せたり、対談やインタビューの記録を載せたりするのである。しかし私自身を振り返ってみると「このテーマでやるからそれに関連した文章を書こう」ということがあまりなくて、そのように受注生産的に(そして一定のインターバルの下で)文章を生成できる人はすごいなと他人事のように思っている。

 ところで私の友人は「日常の中で、別になにも作らなくても困んないはずなんだけど、すごい音楽や映画をみてもソレを反映させられる場がないなんて(作品に直接的な影響がでるという意味ではなくて、すごいものみてワーッってなったのにそれを何らかの形にして発露する場が無いのがこまる)とにかく耐えられない」と言っていたことがある。自分も同じだ。こういう衝動と職人的な受注生産とをどのようにして接続することができるのか、自分にはわかっていないのだと思う。

労働と趣味

 同人誌即売会なんていうのは趣味の極限みたいな場所だからか「趣味をやるように働けたら最高」という考えが割と耳に入るのだけど、毎度これが自分にはものすごく遠い物語に思えてしまう。

 やっているのは好きな作業でも、どういう名目でやっているとしても、過去の作業状況を踏まえつつ、期限を設定しながら何かをすることはすべて労働だと思う(たとえば数日かけて少しずつ長い文章を書くことと、同じ分量の文字列をtwitterで書いて流すことを比べてみればいい)。得られる対価が金銭か精神的満足かというのにかかわらず、どんなことでも労働になりうる。休日遊びに出かけるために起きることだって努力が必要なのだから、純粋な趣味なんてものを私がはたして体験できるのか、大いに疑問に感じている。逆に、まったく遊びの混ざらない純粋な仕事というのも働き始めてから未だ体験したことがない。仕事の中で稀に発生する、進捗も期限も求められず特に意味もない作業は楽しくなくはないので、夢中になっていることすらある。とはいえそのような時間は断片的すぎて、「趣味」という通念に求められるほどの深さも体系的な知識も伴わない。

 こう考えると、余暇を趣味の時間として計画的に消費していくやり方や、締め切りや進捗報告を集団で決め、励まし合って(相互監視し合って)頑張るという仕方が私にはそもそも向かないのではないかとも思い始めた。私はできることなら何も手帳に書きたくなかった。好きな人たちと好きなように関わるためにすら、足に踏ん張りを利かせて立ち上がり、着替えないといけないのが面倒くさいと思ってしまう。社会的に与えられた役割から解放されている日は昼まで寝て、手が届く範囲のものを食ってまた寝たい。それが自分の生活の基本にあったのだと認めることができるまでずいぶんかかった。

 その生活を基本とすると、それに見合った趣味の持ち方は「どうしても衝動を抑えきれないときにだけ書いたり人に関わったりする」といったものになる。技術の洗練もしっかりとした趣味縁もその方向性では得られないだろうが、そのときはまたその虚しさをもとに何か書いていけばいいのだと思う。

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