『テイルズオブザレイズ』第二部第一章について

 私は中学から高校にかけてテイルズシリーズをいくつかプレイしていた。ただ、私はテイルズについてストーリーの面白さなど全く求めていなかった。当時私が傾倒していたノベルゲーム群のストーリーと比べて、テイルズのそれはあまり印象に残らなかったのである(だがエターニアとリバースのいくつかのイベントは今でも覚えている。P、D2あたりはほぼ覚えていない)。むしろ私は、術技、スキルの組み合わせや習得、あるいは戦闘操作等の要素にテイルズの楽しさを見出していた。

 そういうわけで、スマホゲーとなった『テイルズオブザレイズ』(以下『TOTR』)でもストーリーへの期待は薄かった。特にこのように歴代のキャラクターが集うお祭りゲーというのは、各作品のキャラクターが原作ネタを持ち出したり、本来ありえない共演をしたりするのが楽しいのであって、ストーリーなどあってないようなものである。

 そう思いながら、第一部の前半くらいまではダラダラと進めていた。そこまでは、どの章もほぼ話の筋は決まっている。具現化された大陸で「鏡影点」と呼ばれる歴代のキャラクター達と出会い、問題解決を図りつつ最後には「光魔の鏡」を封印する、というものである。しかし、そのパターンは8章あたりから崩れ始め、同時にかなり入り組んだ物語の背景と設定とが顔を出してくる。詳細については、粘り強く考察を続けられている方がいるので是非そちらを参照してほしい。

https://uonoushiro.hateblo.jp/intro

このような考察の存在がすでに、『TOTR』が重厚で魅力ある物語を備えていることを証明していると思うが、今回は私も、標題にした第二部の冒頭について特に語りたいことがある。前置きが長くなったが、始めよう。

 第二部第一章は、第一部とはまた違った重苦しい雰囲気で幕を開ける。第一部の終章で、主人公のイクスは「死の砂嵐」が世界に広がるのを防ぐため、自らの作り出した魔鏡結晶の中に閉じ込められてしまったからだ。

 イクスを失ったミリーナは、明らかに余裕がなくなっており見ていて本当に痛ましい。衣装とともに性格まで変わってしまったのかと思うほどで、イクスを解放するためなら世界がどうなってもいいと一度は言い募る。

コーキス:今魔共結晶を破壊したら 死の砂嵐が外に流れ出ますよ!?
ミリーナ:そうね……。でも構わないわ。
 イクスを助けるためなら。
コーキス:そんなのミリーナ様じゃない!
ミリーナ:いいえ。イクスのためなら何でもできるの。
 イクスはいつだって私を守ろうとして
 私のせいで命を落としてきた。
ミリーナ:だから私は、イクスを救いたい。
 そのためには――
ミリーナ:世界だって滅びても構わない。
 それが【私】だったのよ。

(第二部第一章 回想)

ただ彼女は、過去の自分が滅ぼしたり具現化したりと勝手に扱ってきた世界の人々に対して罪悪感を抱いてもいる(そうでなければ鏡影点一行の今後の生活を案じたりしないだろう)。つまるところ彼女は、ゲフィオンとして成してきたことの負債を、二人目のミリーナである自分が清算しなければとも考えているのである。この後すぐにジュードたちが見破る通り、彼女はイクスを取り戻した後、死の砂嵐をほったらかしにするつもりは最初からなかった。イクスを救い出したら、今度は自分が死の砂嵐を封印するための人身御供、「人体万華鏡」になろうとしたのだ。

 このように、主人公の自己犠牲という形で無辜の犠牲者を救い出し、世界の危機を収束させることが彼女の意図であった。これはこれで一つの物語の終わりにふさわしいように思える。しかし、『TOTR』はそのような人身御供的な物語の類型には従わなかった。この物語はより前向きで、明確に反–悲劇的である。なぜなら、「イクスが身を挺して世界を守ろうとした」という筋で完結する悲劇は、ミリーナによる想像にすぎなかったことがはっきりと物語の中でわかるからである。

 実際、イクスは世界を守るために犠牲になったつもりはなかった。彼は、世界を危機から保護し、そのために必要な生贄も新たに発生させず、さらには自分も生還する(これが最も重要だろう)ために、ミリーナたちに猶予を与えて解決策の模索を任せたのである。第一章の冒頭は、彼女たちがイクスのこの狙いに気づくまでの過程を描くものだったといえる。

 コーキスはイクスの心と通じているため、イクスがミリーナを守りたいと強く思っているのはわかっていた。ミリーナもその思いはわかっていた。しかし、もし情報がそれだけであったなら、ミリーナは人体万華鏡となることを選び物語は完結したことだろう。もし終章でのイクスが「彼女を守りたいし、つらい思いをさせたくないのでとりあえず自分が前に出てみました」ということだけで行動していたのなら、ミリーナは「その思いは自分も同じだ」と考え、イクスに代わって自分が犠牲になろうとしただろうからだ。この、「ともかく私こそが犠牲になろう」という譲り合いは、殺し合いと同じくらい不毛なものであり、後に来たほうがその望みを叶えるだけなのだ。この「ともかく」は理由を説明せず、したがって誰が正当なのかを考えることも拒否するからである。

 重要なのは「心」ではない。それは基本的に複写することしかできない。イクスの狙いを理解するために必要なのは、物質として残された情報である。例えばそれが、イクスが図書室で借りた本の記録だったのだ。

ジュード:僕たちはイクスの心の中まではわからないけど、それでもイクスが何をしてきたのかは突き止めたよ。このメモを見て。
コーキス:これは……?
 難しそうな名前が書いてあるけど……。
ミリーナ:これ……魔鏡術の関連書籍のタイトルだわ……。
(第二部第一章 3話)

彼は日頃から創造の魔鏡術の研究書を繙くことで、自分の力を使ってできることを見定めようとしていた。その日々の研究の中で、彼の術の最大の奥義(「スタック・オーバーレイ」と呼ばれる)がミリーナの術(人体万華鏡)とは全く違う性質のものであり、最悪暴走させたとしても使用者は人間のままでいられることを彼は知っていたのである。

 このようにイクスが魔鏡術について調査していた事実に加え、彼が最後に言った「コーキス、後は頼む」という言葉から、ジュード達は次のように推測する。彼は安易な自己犠牲に走ったのではなく、知恵を振り絞った末に建設的な行動を行ったのだと。つまりイクスは、ミリーナとコーキス達がいずれ「死の砂嵐」への対抗手段を見つけて自分を救出に来てくれるはずだと信じていたから、思い切って盾になることを引き受けたのである。

 何度でも強調したいことだが、その思い切った行動は、日々の地道な研鑽に支えられてこそ可能になったことである。イクスは、自分には何ならできて何はできないかという知識を身につけていた。だからいざというときも慌てずに判断できたのだ。

誰かや何かを本当に信じることができたとき
人は凄い力を出せるんじゃないかって
鏡影点の人たちを見て思うようになってさ。

でも誰かに信じてほしいなら
まず自分が自分を信じられるようにならなきゃなって。

(第二部第一章 回想)

イクスのこの台詞は、日々の研鑽→自分の能力の自覚と信頼→思い切って他人を信頼する行動 という連鎖を、逆方向から言い当てたものなのである。

 ちなみにこのような物語には珍しく、イクスの日々の研鑽とは、武術の練習ではなく魔鏡術についての勉強(読書)であった。

イクス:俺、色々あったから、どうしても自分を素直に信じるのが怖いんだ。だからもっと強くなろうって思ったんだよ。
コーキス:それで勉強かよ!?
 マスターってズレてるな。
 剣とか練習したほうがいいんじゃないか?
イクス:はは、強さにもいろいろあるんだって。
 俺は俺のできることをやってるんだ。
 いざというときのためにさ。

(第二部第一章 回想)

時代の最先端の機器で展開されるこのゲームが、本を読み、知識を自分のものとするという古典的な行為の意義を再度強調してくれるのは、私のような本を読む人間にとって嬉しい誤算だった。

 話を戻す。第一章は、ミリーナとコーキスがイクスの狙いに気づき、彼が自分たちに何を託したのかを推論するものだった。彼の狙いに気づくためには、このように人知れず「知に支えられた信」を養っていたイクスの姿を想像できなければならない。これは、ミリーナがそうだったように、彼を「守らなきゃいけない存在」だと思い続けていた場合は難しいことだろう。

 ある者を庇護しなければならないのは、その者が未熟であり、不注意であり、自分の力量を見誤って無茶をやるからである。そういう者をひたすら助けることの喜びも、確かにある。しかし、それはいつまでも相手を見くびり、いずれ相手が放っておいても勝手に物事を考え、意志をもち、目の届かないところで成長を遂げる一人の人間だという事実に目をつぶることである。その事実を受け入れてはじめて、庇護者は被庇護者と思い込んでいた相手と対等に付き合うための前提に立てるのである。自分と相手は別々の身体を持ち、別々のことを考えている存在であるという前提に。

メルディ:ミリーナとイクスが、本当に心繋がった?
ミリーナ:メルディ……。うん……。うん……。
 多分、私、やっとイクスと同じところに
 来られたんだと思う……。
ミリーナ:メルディたちと出会った時の私たちは
 まだ本当の意味でお互いのことをわかっていなかったんだって……。
ミリーナ:やっと……わかった。

(第二部第一章 3話)

 イクスとミリーナは物語当初からずっと、約束されたような幼馴染カップルとしてやり取りを重ねてきた。それは別にどのゲームでも漫画でもラノベでも小説でも頻繁に繰り返されてきたことだし、今更騒ぎ立てることでもない。しかし、その時期をはっきりと指して「まだ本当の意味でお互いのことをわかっていなかった」と一刀両断するこの発言には少し驚かされた。まるまる14章+α分のストーリーをかけて、ミリーナは「イクスのことをずっと見誤っていた」と認めるに至ったのである。この種の告白を含む作品というのは、私が覚えている限りでもあまり多くない。

 以上のように、私は『TOTR』の物語としての魅力をこの第二部第一章で思い知らされたので、それを確認してみたかったのだ。まず第一には、自己犠牲ではなく、日々の研鑽から他人との協力(役割分担)という建設的な展望が拓かれるということが基調としてある。そして第二に、「心」や、「守ること、助けること」に焦点を定めることによって、相手を理解した気になってしまうという傲慢への警戒も常に働いている。

 この二つによって描き出されるのは、受け入れがたいほど凡庸な風景かもしれない。悪く言えばルーティンワーク、物質の重さ、自分の認識が甘いと思わされる屈辱である。しかし、このゲームのジャンル「真実の強さが集うRPG」の「真実の強さ」とは何かと考えてみれば、そういうものを背負っていける体力なのかもしれない、と思いもするのだ。


テイルズ オブ ザ レイズ ミラージュ プリズン 公式サイト

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