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【自作エッセイ】薄明

秋も終わりかけてもう初冬に入り始めたと言っても差し支えないだろうか。午前7時になってもまだ日は昇り切らず、空はほんのり白み始めている。薄明というには明るすぎるかもしれないが、それでも私の数少ない語彙の中ではやはり薄明という言葉が一番しっくりくるし、何よりその言葉の洒落た響きに少し甘美さを感じる。

今日は雲ひとつない空だが、私はやはり澄み切った快晴が好きだ。時々刻々と変遷する空の色は、地球に生まれて最もよかったとさえ感じる程にいつだって美しい。それはまるで1人の人間の人生を見ているかのようだ。朝の優しい光は生まれたての赤子を想起させ、午前中の痛々しいほどの青さは若者の底知れぬエネルギーのメタファーとも言える。かといって夕焼けも捨て難いし、澄み渡った夜空に輝く満天の星たちは、あたかも長い人生を生きた上で培った知識や経験かのように燦然と輝くのだ。

薄明の空は少しずつ明るさを増して、街を暖かい日差しが包み始める。夜行バスを降りた私は国道21号を神戸三宮駅方向に歩き、途中の西国街道を進んで生田神社に向かった。別に特段祈りたいことはなく、生田神社を撮影して映える写真でも撮れれば良いという信心のかけらもなさそうなモチベーションに過ぎない。だって、祈ったところで救われるかはわからないのだ。

それでも本当に祈りたいことはないのかを心に問うてみた。心の奥底を除けば、望みや悩みの有象無象に満ち溢れているではないか。家族、友人、仕事、学業、恋愛、金銭、挙げれば枚挙にいとまがない。人間には108の煩悩があると言われているが、本当に108で足りるのか疑問すら覚える。ただ、言葉に起こして整理できていないだけの悩みたちが心にびっしりとこびりついていて、ある意味ではそうした悩みが私を形成しているのかも知れない。

ただ、私が今こうして悩んでいるのは、私が今肉体と知能を有して生きているからだと気づいた。私は今、何かを悩み神に祈りたいと欲している自分を知覚したのだ。と同時に、そんな自分を近くできるのは今を生きているからであり、私は何かを望んで生きようとするだけの動機がちゃんとあるのだとわかった。別に何をしたいかは明確でなくても、何かをしたくて何かを望んでいる。その「何か」は暗黙知でしかないが、それでも根底にある価値観と密接に関わっているのだろう。私は何かを望み、生きようとしている。それに気づけただけでも十分なのかも知れない。

そんなことを夢想しているうちに生田神社の本堂が目の前に立ち現れた。壮麗な装飾とは裏腹にこじんまりとした本堂はどこか愛らしさがある。賽銭は御縁とかけて五円が良いというが、5円玉がなかったので10円玉にした。額が2倍になったのだから文句はないだろう。結局何を祈るかも決まらぬまま、「心の奥底の悩みが叶いますように」というなんとも曖昧模糊とした祈りを捧げた。答えを出して実現するのは結局自分だ。それでも、己の悩みと向き合って「今を生きている」と知覚できたのだから、霊験あらたかな神社も悪くない。薄明だった空はすっかり青みを帯びている。新しい一日がまた始まる

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