a tribe called summer

誰にでも平等に夏は訪れる。
それは小学生だった俺にも訪れた。

俺の生まれた地域はすぐ近くに信濃川が流れ、豊かな自然が育んだ肥沃な土と豊富な水量から水田と果樹園が広がる田舎だった。
そんな田舎では早朝になると毎日のように銃声が聞こえた。
バーン!と毎朝どこかで鳴り響くその音に対して子供の頃は文明開化の音色くらいにしか感じてなかったが成長するに従い、こんなインターネッツの時代に毎日銃なんて撃つものなのか?と疑問に思い調べるとどうやらぶどう畑などにやってくる害鳥を追い払うための銃声をCDか何かの音源で流しているらしい。
それもそれで毎朝5時くらいから音がするのだから違う対策をうてないものかと思うが。

夏はのどが乾く。そんな田舎に住む部族(トライブ)の子である俺も平等にのどが渇いていた。
家の冷蔵庫にあるものと言えば麦茶と牛乳。
もう草から出た汁と牛の体液なんて飲みたくない!甘い甘い糖を欲するお年頃の俺は自動販売機へ向かうことにする。

チャリで5分かかるコンクリート工場の入口が最寄りの自販機で、むしろ自動販売機がある場所を俺たちトライブの子らは「まち」と呼んでいた。
家の裏にある神社では一斉にセミが7日間の生命を爆音で鳴らし、頭頂を横切る太陽がアスファルトに蜃気楼を作りながら午後の高気圧を楽しんでいる。
外に出ただけで五感全てに夏を感じながらチャリをこぎ「まち」へたどり着く。
そこで工場の従業員に見つからぬよう、ヤモリのように素早く自販機に近づき握りしめた100円を投入する。
思い出のダイドードリンコ。
「さらっと絞ったオレンジ」か「レモンスカッシュ」の2択。
理由はどちらも100円で500ml楽しめるからだ。
ドガシャ!と重い質感が落ちる音を確かめて缶を取り出し、また「むら」に帰る。
そして電池の切れたゲームボーイをつけたり消したりしながら母がアルカリ電池を買ってきてくれることを祈って日が暮れていく、そんな毎日が夏だった。

そんなエリアに住むトライブには夏のイベントがあった。
その名を「からくどう(かなくどう)」と呼んでいた気がする。
近所の林から竹を切り、我が家の裏にある神社へ運ぶ。
そしてその竹を縄でつないでジャングルジムの様な建造物を作り、竹の葉でその周りを囲む。
この物体のことをかなくどうと言うのかは今や謎だ。
そして夜になると普段は閉まっている神社の本堂が開き、その中に部族の子たちが両脇に並んで座る。
するとその地域に住む部族の大人たちが次々と神社を訪れ、お賽銭をする。
それにお礼をするかたちで子どもたちの中の年長者が酒をその大人に振る舞うという部族丸出しの謎イベントだった。
今思えば外に作ったあの竹のやつ何だったん、とかは思うがこのイベントのもっと大事な点として、イベント終了後大人が入れていったお賽銭箱をひっくり返してその金を子どもたちで山分けする、という点にある。
形式としては神事というよりもキャバクラに近い。
我がトライブは無神論者しかいなかったのか。
バチというものを根本から信じない祭りだった。
もちろん子どもたちは金がもらえることを知っているからクソ暑い中でも竹を切り、繋ぎ、大人たちに酒を振る舞い愛想笑い連発で頑張る。金のために。
そこで部族の子らは労働というもの、そして資本主義を学び、「まち」へ出るための練習をしていたのかもしれない。

そんな我らのトライブも過疎化の一途を辿り、子が激減してどうやらその祭りもなくなったようだ。
ふとそんなことを思い出して検索してもこの祭りについてほかの地域での文献や情報を得ることができなかった。
もしやあの祭りは俺が見た幻だったのだろうか。
それとも夏の太陽が作り出した蜃気楼か。
夏が来るたびにまたきっと思い出す。
誰にでも平等に夏が訪れる限り。

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