母とその母と ①

夏らしくない夏の中で暦は進んでお盆が来る。
この時期になるといつもばあちゃんのことを思い出す。


残暑厳しい東京は逃げない熱が僕の住むボロアパートにも眠れない夜を連れてきた。
断続的な浅い眠りの中で何度も僕は寝返りを打ちながら夜をやり過ごそうと努力していた。
そんな深夜3時にガラケーが鳴った。
母からの着信にほんの一瞬戸惑ったあと、すぐに内容の察しが付いた。

「ばあちゃんが、死んだわ」
と電話に出るなり母はそう言った。
小刻みに震えた声色と少し荒い息づかいに僕は、生みの母親を失くした母の気持ちが詰まっているような気がして「うん」としか返事ができなかった。

その日の始発に乗って新潟へ帰ると伝え、電話を切る。
これまで何度も何度もばあちゃんは「山場」を迎えてきた。
医者からそう伝えられる度に家族みんな気持ちの覚悟を強いられてきた。
そして訪れた本当の山場。
涙は出なかった。
「やっと終わったなぁ、ばあちゃん」
そんな気持ちが上回って晴れやかな気持ちさえあった。
お盆に新潟に帰省してから東京に戻り、一週間も経たない8月半ばにばあちゃんは死んだ。
タイミングが良いんだか悪いんだかわからんな、と考える余裕もあった。

両親が共働きで帰宅は夜。
小さい頃から祖父母に育てられていた僕が小学3年のときにじいちゃんが死に、それからの放課後は僕とばあちゃん二人でいつも過ごしていた。
ただ僕はゲームボーイをしながら夜を待って、ばあちゃんはいつもよく分からない何かを縫っていた。
特に多く会話をするわけでもなく、僕はばあちゃんが好きな相撲取りの勝負が終わって「変えていいろ」と言うばあちゃんの合図を待ってテレビを夕方のドラマの再放送に合わせる。
そんな平凡な毎日を繰り返しながら僕もばあちゃんも年を取っていった。

「病気で迷惑かけるんらったら、はよ死んだほうが良い」とばあちゃんはいつも言う。
それを言われた子どもの僕はいつも返す言葉もなく「ふーん」と興味なさげに言うだけだった。

中学生になり、修学旅行で向かった京都で僕はばあちゃんに財布のお土産を買おうと思った。
母から聞いた話によるとばあちゃんは財布を持ったことがないと言う。
もっと正確に言うならば、家の家計を管理したことがないと言うのだ。
この家に嫁いできた若い頃は姑、つまり僕のヒイばあちゃんにイビられ締め上げられまくってお金を持つこともできず、ヒイばあちゃんが亡くなる頃には娘、つまり僕の母がすでに結婚して我が家の家計を持つようになっていたため財布という物を使う機会がなかったらしい。
孫たちにお年玉を上げるときだけ娘である僕の母からお金を貰う。
道理でばあちゃんの財布を見たことが無いわけだ。
京都で素晴らしい財布を僕は見つける。
お土産屋で見かけた赤くて美しい鶴のような和柄が縫い込まれた財布。
これだ!と思った後にすぐに悪い考えが浮かんだ。
隣の小さくて安いちょい地味めながま口財布にすればもう一品、俺の土産が買える……
赦し給え祖母、可愛い孫のためやで!と自らに言い訳をしながら僕は安いがま口財布を買ってばあちゃんにあげたのだ。

ばあちゃんの葬式。
火葬場に置かれたばあちゃんの棺にはそのがま口財布が入れられていた。
僕があげたお土産の財布を、孫にお小遣いをあげるときだけ開かれるその財布をばあちゃんは死ぬまで使ってくれていた。
それを見て苦い後悔とともにこの話を思い出したのだった。

僕も高校生になり、帰りも遅くなった。
ばあちゃんと過ごす時間も少しずつ減っていった。
そんなある日、事件が起こった。

辺りが真っ暗になっても畑仕事に行ったばあちゃんが帰ってこない。
家族総出でばあちゃんを探した。
用水路に落ちたり具合が悪くなって倒れていたり車にひかれているかもしれない。
悪い想像はいくらでも思いつく。
結果として、ばあちゃんはまだ畑の隅っこで草刈りか何かをしていたのだった。
ホッと一安心で終わる話かと思いきや、母はばあちゃんをひどく叱った。
子どもの自分でさえ見たことないほどの剣幕でばあちゃんを叱りつけていた。
そんな怒ることでもねぇだろ、と思って僕はむしろそんな母に苛立った。

それから少し経ったある日。
斜め向かいのご近所さんが我が家を訪ねてきた。

その日の昼、突然ばあちゃんがそのご近所さんの家に来たのだという。
そしてそのお家の人に、
「うちの坊、来てねかね」
と聞いたのだ。
"坊"とは、僕のことだ。
ばあちゃんはやっと歩けるようになったはずの僕が、さっきまでそこにいたはずの孫が突然、居なくなってしまったと思い必死に僕を探していたのだ。

その翌日から、我が家の玄関は常に外鍵を掛けるようになった。

続く

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