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マナーって、なんだっけ? 〜マナーの本質を知る〜

さて、事実上の初めての記事を書くワケだが。
最近、少しだけもにょっとしたことがあるのだ。

それは「マナーを守れよ!!!」とうるさいヒトをしばしば見かけることだった。
そこで出たのが今回のタイトル。

じゃあまずはマナーという言葉の説明を見てみよう。

マナーとは、人との関わり方や社会生活における振る舞い方のこと。

…うん、守るっていうけど。

食事や挨拶、電車やエレベーターの乗り方、電話やメールのしかたも、それぞれでバラバラじゃないか。

そう、決して「守ればいい」ワケではないモノである。
結構な数のヒトが学校や研修で習ったモノ・守ってるモノは基本の「型(カタ)」であるということ。

ただカタができれば渡り合えるなんてことはまずない。

そしてさらに大事なのは「そうする“意味”を知る」ということである。
コレを知る事は人間関係やビジネスにもプラスになる。


例えば、定期的に話題にあがる「苗字で呼ぶか名前で呼ぶか」だったりも。
確かに日本人だけのコミュニティであれば苗字で呼んでもいいかも知れない。
日本人の中には「名前で呼ぶのは馴れ馴れしいからイヤだ」というヒトもいるだろう。
しかし多くの国にとって苗字は識別子でしかなく、重要とはあまり言えない。
そして「苗字で呼ぶ」というコレは、当たり前だと想って常にそうしていることは日本国内・日本人だけに全然とどまってないYouTube(他、海外発の色んな配信プラットフォーム)では極めてリスクの高い行動である。

例えばベトナム、国民の4割ぐらいが「グエン」という苗字である。
ファミリーネーム数世界ランキング第4位になってしまってるほど「グエン」は多い。
そのためベトナム人が多い中で「グエンさん」なんて呼んだら一度に何人もが返事したり振り向いたりがしょっちゅうある。
私がかつていた日本の学校にもこの苗字が何十人かいて、苗字を呼ぶたびに一度に何人も反応した。
他の苗字も種類は少なく、割合もかなり多いためそれが故に名前(ファーストネーム)を使うのが常識なのである。

また、中国には「王(ワン)」「李(リー)」、韓国でも同じように「金(キム)」という苗字が結構な割合でいる。
そのため苗字で呼べば「どのヒトやねん!?」と怒られることもある。
また、韓国の「さん」に相当する「~씨(ッシ)」は苗字“だけ”につけてしまうと、(スキャンダル級の事を起こした)悪いヤツを呼ぶ時と同じようになってしまうため、とてつもなく失礼なのだ。
じゃあどうするの?と聞かれたら名前(ファーストネーム)で呼ぶ、もしくはフルネームで呼ぶのである。
目上のヒトを苗字で呼ぶ時は「さんをつける」のではなく「対応する敬称や役職をつける」のである。苗字しか知らない場合もこれでいい。

さらに同じアジアのマレーシアはなんと苗字がない。
フルネームを見て「え、あるでしょ??」と思うヒトもいるかもしれないが、ファーストネームの次に来てるのは「父親の名前」なのだ。
これは名前の構成が少し特殊な例だろう。
だから万が一、苗字だと思って呼んだ日には「間違えるな、(それは親父の名前であって)私の名前は〇〇だ!」と怒られる。

私の故郷であるスウェーデンでも、名前(ファーストネーム)で呼ぶのが当たり前なのだ。
敬称なんてものは無いに等しい、呼び捨てが当たり前だ。
例外があるとしたら(家系が重要な)国王や貴族ぐらいなモノだ。
しかし、中にはその例外であっても苗字で呼ばれる事を強く嫌う事がある。
何度か話しているが私は身バレもある故に詳細には言えないがちょっとした良家(というより私からしてみればクソめんどくさく呪われた家系)の出身で、もし(幼名の)苗字呼びされて呼び方を変えるように促しそれを断ったら私はそのヒトとは凄い距離を取るようになる。
どういうことかというと「お前は先代(一族)の延長線でしかない」「100歩譲ってお家のことは認めてやってもオメーのことは認めてやんねーよ!!!」ぐらいの意味があり、意外と例外でもこういう意味でとるヒトはいるのだ。
財産狙いと疑われることもあったりする、故に呼ばないように促してるのに呼ぶのは禁忌なのだ。

そしてアメリカ(というか欧米諸国のかなり多い割合)は上司であっても社長であっても取引先であっても、それどころか大統領であっても本人がファーストネームで呼んでほしいと言ったらそう呼ぶのが常識なのである。
いきなり名前(ファーストネーム)呼びされるのを苦手とするヒトもいるがそういう時はだいたい名前(ファーストネーム)以外の呼び方を提案してくる、例えば愛称(ファーストネームどころか本名とはちっとも掠ってないこともある)だったり苗字だったりと。
また、兄弟であっても「お兄ちゃん」などとはまず呼ばないし、先輩であっても「〇〇先輩」はまず言わない、名前(ファーストネーム)で呼ぶのだ。
苗字でずっと呼ぶのは「あなたとは形だけの関係ですので」「仲良くなる気なんかない」という突っぱねの意味である。
苗字呼びが通じるのは警察や軍隊ぐらいで、そうでなければ親しすぎる間柄で悪ふざけとして呼ぶときだ。

最近のアメリカ企業のサービスなんかも顧客へのメールで私に「Hi,Akira.」などとさらっと書いてるほどだ、コレはMr./Ms./Mrs.を間違えてしまったりするのを防いだり、(家や性別や身分ではなく)個人を尊重する意味合いがあるのだ。
苗字のみを名乗った場合相手に与える印象は「近寄りがたい」「家にすがってる(自立できない)上にプライドだけはいっちょまえに高いヤツ」だったりする。

また、名前(ファーストネーム)を呼んで欲しいと言われた時に「恥ずかしい」などと返してないだろうか?
コレは特に欧米人にとっては「あなたの名前(ファーストネーム)そのものが呼ぶこともできない恥ずべきモノだ」とディスる形で伝わってしまうことが多いので絶対にやめていただきたい。
「気恥ずかしい」であれば「あ、ミドルネーム(自分でファーストネームよりも好きだったり仲がよほどよくないと普通は呼ばない部分)呼ぶ感覚なのかな?」と解釈される可能性はある。
欧米の言語の多くはローコンテクスト、つまり言葉そのものが強い意味を持つモノであり言葉に出てない部分を「察する」などという文化も希薄なのだ。

もしどういうヒトかを知らないとき、呼び方に迷う事もあるだろう?
そういった状況を打開する魔法の言葉がある。
それは「How should I address you? (何と呼べばいいかな?)」である。
こういったことを聞くのはちっとも恥じゃない、むしろ聞かないまま相手が望まない呼び方を続けることの方が大恥だ。
呼び方を聞くこと自体は、相手が日本人でも通用する。

また、もし仮に相手からこう聞かれた場合は素直に呼ばれたい呼称を伝えるといい。こういう場合は遠慮は必要ない。
「なんでもいいですよ」は優柔不断と思われナメられたり、あとになって酷い呼び方されても反論ができなくなってしまうことがある。
もしくは、相手がさらに迷ってコミュニケーションを放棄する事もある。
故に、素直に伝えていいのだ。


なお、私も「丁嵐さん(他、丁嵐氏/丁嵐殿/Mr.Atarashiなど他の丁嵐にも使える呼び方)」と呼ばれる(呼ばれ続ける)ことはよほどの場面、例えばビジネスメールや業務連絡やかなりかしこまった場でもない限りは、故郷の文化や家系を忌み嫌うのもあってかなり苦痛である。
敬称略の場面でも苗字のみの呼び捨ては論外だ。

それが日本に70人程度しかいないモノで(読みにくいけど)印象に残りやすく、戸籍上の名前でなかったとしても「丁嵐さん(他、丁嵐氏/丁嵐殿/Mr.Atarashiなど他の丁嵐にも使える呼び方)」と呼ばれる事を正直好かない。
この丁嵐という苗字は自分の本意でついたモノではない。
それが故にいつも丁嵐さん(他、丁嵐氏/丁嵐殿/Mr.Atarashiなど他のどの丁嵐にも使える呼び方)と呼ばれた日には「丁嵐さん(他、丁嵐氏/丁嵐殿/Mr.Atarashiなど他の丁嵐にも使える呼び方)、などとマトモに呼ばれるのはとても落ち着かない。景樂とか博士と呼んで戴きたい。」と提案してることがほとんどだ。

落ち着かないというのは少なくとも「いい気分がしてない」ということ。
なお、「丁嵐博士」「丁嵐監督」「丁嵐先生(あたらしせんせい)」「Prof.Atarashi」など役職をつけたモノは愛称や敬意として認識してるため全然嫌いじゃないしぜひとも引き続きそう呼んでほしい。
他の丁嵐には博士も監督も先生もProfessorもいないが故に誰なのかがハッキリわかるワケであるからだ。

指摘されてすぐに改めてくれる人は有難く思うのだが、ふざけだろうが真面目だろうがしつこく「丁嵐さん」なんて呼ぶヒトがいた日には私はそのヒトの事を強く嫌うだろう。
ソレは、単に希望が通らなかったから駄々こねてるみたいな次元の低い話ではなく、相手の考えや気持ちという意向の一切を無視して相手を尊重してないからだ。

私もスウェーデン人の例にあまり漏れずファーストネームの「景樂」を呼び捨てされたところで日常茶飯事としか思わない。
だから「呼び捨てでもいい」と言ってしまうことがあるが、悲しい事に仲がそんなに深まってない状態から呼び捨てで呼んでくれる同業者のヒトはたった2人しかいない。。。
※片方はイングランド留学経験済みの男性、もう片方は単にためらいがないだけの可能性がある女性。


さて、そろそろ読者諸君は気がついただろう。
とどのつまりを言ってしまえばマナーというのは相手を気遣い、相手の“禁忌”に踏み込まないように「相手や場面によって変化させるカスタムメイド品」なのである。
誰にでもどの場面でも同じ手が通用するワケではないし、鉄板もセオリーもないのだ。
受け取る相手に敬意が伝わらず不快を催した時点で、その場ではマナー違反ということになる。
それは、言葉の使い方がフランクであっても丁寧であっても共通している。
基本形こそあれど、相手によってうまく使い分けたり変えたりすることが大事なのである。
「自分なりの礼儀・敬意」などとして自国の・自分の思う礼儀や敬意をムリに押し付けるのはただの失礼にしかならない。

コレらが実際にできるようになるためには、意識と練習と実践経験が重要だ。

ところで実は最近、同業者で仲良くさせてもらってる人物(名前はナイショな)に、この記事に関連することで「凄いな…」と思ったヒトがいた。
そのヒトとは面会してお話した時に相手の反応をしっかり「見て聞いて」「少し考えて(ヒトによってはこの思考時間が長く詰まってると思うかも)」「相手を想い」「次の言動に移る」のである。
私はこのヒトをとても「生きた“マナーの本質”では…」なんて感じてしまったほどだ。
本人の話を聞く限りそういう「場数を踏みすぎたせい」でなったようだ。



社会人でもマナーがなってないヒトは多いと聞く。
それはおそらくは「カタにハマりすぎてて応用がちっともできないヒト」と「カタすら知らずに相手に我流をぶつけてしまうヒト」の2つに分かれるのかなと。

前者は「〇〇すれば相手への印象はいいに決まってますよね!?」といったヒトだ、しかしそれは「それが通じるヒトばかりの狭い世界にいるだけで、すべてのヒトから礼儀正しく印象がよく映るかは話が別」だと私は思う。
ときに丁寧な言葉ばかり使うのは(普段からそうというワケでもない限りは)媚を売ってるだけ・堅っ苦しいと見られてしまうこともある。
日本ほど敬語の種類が多い国もめずらしい、それどころか海外では敬語の概念は日本と比較したら希薄である(まったくないワケではない)。

後者はホントに相手の気持ちをガン無視して横暴を働いてるだけのヒトで、決して気持ちのいいモノではない。
例えそれが「軽い気持ちだった」としても、その軽い気持ちでやった横暴を受けた人物の気持ちを考えてもいないのだろう。
横暴を受けて気持ちいいと思うのはマゾヒストぐらいである。

だから、マナーの本質というのは、知ることがとても大事なワケで。
みんな、ホントにそこのあたりは大事にしていこうな?



さて、私のもにょりを自ら消化したところで本文はコレぐらいにしておこう。
ここから先は蛇足あとがきだ、読みたければお金を払って読めばいいと思うが別に払う必要も読む必要もない。
目からウロコが落ちたり、丁嵐博士を応援したいなと思ったら投じてくれればいいぞ?



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